田無25周年演武大会と演武大会の歴史 |
田無合気道会創立25周年演武会が大人、子供合わせて200名以上参加して9月27日(日)田無市民会館ホールで盛大に行われました。定刻1時に始まり開会宣言、会長挨拶そして直ぐ指導員演武とスムーズに進行しました。定番だと来賓挨拶が何人も続き、後半は時間が無くなってはしょられるのが定番です。今後合気道小林道場の行事は総て挨拶は必要最小限で行きましょう。
昨年忘年会の時に話が盛り上がり、その場で年間予定を調べ2009年9月27日に記念演武大会を行うと発表しました。使用会場は抽選の申込みです。この演武大会の言い出しっぺの一人である越智さんが見事当たりくじを引いて会場確保ができました。
次は参加者の募集です。演武会の傘下申込書を手渡すのですが、最近演武会をやっていなかったせいもあり、皆どのような事をするのかあまりピンと来ないようで、躊躇しています。500名入るホールですので30名や50名では笑われてしまいます。ポスターを作り合気道小林道場の直轄、参加の道場にも積極的に呼びかけました。
写真:挨拶をする二代道主植芝吉祥丸先生
締め切り間近に私が演武会実行委幹事に参加人数を聞くとさえない顔で「今ひとつです」道場長も勧誘をお願いしますと逆に頼まれました。参加希望者は締め切りに間に合えばと簡単に考えていますが、幹事は大変です。それでも締め切り日には大人、子供合わせて100名位にはなりました。さっそく演武の順番、プログラムの作成、記念品の手配等で幹事は大忙しです。プログラムには出場者の名前が入ります。一字でも間違えたら大変です。気をつかい皆で何回も確認をします。
プログラムを各道場の出演者に見せ確認をしだしたら、演武会に参加を躊躇していた人達がやっとその気になり、締切が過ぎてから出席者が総勢200名以上に成りました。早く参加を申し出てくれたら幹事は何の苦労も無いのにと嬉しいため息をつきました。
演武会の様子などは田無の会員、吉家 明さんの報告を見て下さい。
写真:デパートの屋上で受けをとる私
演武会と言えば、私は幸せにも合気道が初めて一般公開された昭和30年(1955年)6月の日本橋高島屋で行われた本部道場の演武会を見ています。4月に入門したばかりでしたので演武に参加はしていませんが畳を運んだりして雑用の手伝いをしました。
以前武道界では、他人に見せるという感覚がありませんでした。昔の武道秘伝書など読んでみますと「以下口伝」と書かれている項目が多いです。師匠は弟子に高度な技は一対一で技を教えていました。道場の作りも窓は「武者窓」といい、覗かれないように非常に高い位置にありました。植芝盛平翁先生はこの様な感覚の武道家でしたので、二代道主植芝吉祥丸先生に依ればこの演武会を開催するに当たり大変な苦労をされました。
写真:全国学生演武大会で挨拶をする翁先生
二代道主植芝吉祥丸先生が書かれた合気道開祖「植芝盛平伝」から一部引用すると、「合気道のそれまでの演武会と云えば、もっぱら道場における開祖のみの演武、説明にとどまり、あとは戦前しばしばおこなわれた公式の武道大会で、開祖のみが了解したときにかぎりおこなわれる賛助演武であった。これを一般公開するなどは、開祖がもっとも嫌うところでであった。
武道とは身命を賭する必死の行であるがゆえに、奥義はその道に励み修せんとする者のみがよく見聞を許されるべき秘事である。みだりにこれを門外漢にもらすなど背徳非信行為であるというのが開祖の信念であった。」
この様な開祖を熱心に説得して日本橋高島屋の屋上で演武会が行われました。この決断が無ければ合気道は現在の様に普及、発展はなかたと私は思います。この歴史的な演武会を皮切りに二代道主植芝吉祥丸先生は機会あるごとに演武会、説明会を開催されました。
写真:迎賓館での藤平光一先生の演武。受けは私
私も一年後には本部道場の指導部の一員として植芝盛平翁先生、二代道主植芝吉祥丸先生のお世話をしながら先生のカバンを持って各地の稽古、演武会では受け身を取らせて頂きました。
色々な失敗談も沢山あります。先生の袴をカバンに入れ忘れたり、翁先生が30~40分も神様や古事記の話をされる間、我々は正座ですので足がしびれ呼ばれた時に立ち上がれず怒られたりしました。その内に私達も工夫して翁先生の話が長くなりそうだと思うと袴を何気なく大きく広げて片足だけあぐらをかき足のしびれ対策をしたりしました。
ここで一つ体験から得たしびれ対策をお教えします。正座を長くして足がしびれた時、立ち上がって前に歩くと足の感覚が無いため足がもつれて転びます。まず両足のつま先だけ立てて体重を掛け、多少しびれを取り前ではなく後に二、三歩あるいた後前に歩くとしびれは不思議と取れます。覚えておくと便利です。
昭和35年(1960年)5月 第1回全日本演武会と名付けて新宿の山野ホールで演武会が開催されました。次回は朝日新聞社ホールで行われましたが一般の観客が集まりすぎて入れない為に大学合気道部員が退席して、その席に合気道を初めて見る人の為に開放した事もありました。その後の全日本演武会場は日比谷公開堂が長く使われました。
植芝盛平翁先生はせっかちですので、演武会場に到着されると直ぐ演武の場に出てしまわれます。翁先生が演武されると、その後誰も演武できません。遠く九州、東北などの地方から来られた師範もいますので、我々内弟子達は如何にして翁先生を適切な時間に演武会場に連れて行くか朝から頭を悩ませました。道場の時計を総て2時間遅らせ、タクシーで(当時本部道場には車はありませんでした)遠回りして演武会場の日比谷まで行くか内弟子達は必死でした。翁先生を適当な時間に到着させても自分達の演武が出来ないことは度々ありました。
昭和44年(1969年)4月26日に植芝盛平翁先生が入神され1970年5月の全日本合気道演武大会は追悼演武会として初めて日本武道館で開催されました。この時の武道館内の演武用畳は3面だったと思います。社会的には安保闘争、ベトナム反戦運動など騒然としていましたが、高度経済成長に入り庶民は多少ゆとりが出てきました。その為運動やレジャーに目が向く様になり合気道も注目され稽古する人が多くなりました。武道館での年毎の参加人員は増え続け今年の第46回演武会では7500名の演武参加者に達しています。
私は名誉な事にこの第1回全日本演武会と銘打って行われた山野ホールの演武会から今年の第46回全日本演武会まで連続して出場し続けています。二代道主植芝吉祥丸先生始め多くの先輩師範が現在鬼籍に入ってしましい、数少ない先輩師範は海外滞在指導などで全日本合気道演武大会には連続して出場していません。私の記憶に間違いなでれば全日本合気道演武大会に46回総て出場しているのは私一人です。非常に名誉な事と思います。
さしあたって50回演武大会出場を目指し精進を続けます。元気、元気で皆さんと一緒に稽古していれば直ぐ達成できます。皆さんの応援をお願いします。
合気道小林道場の規模が大きいので、道場ごとに何周年記念演武会というと年何回も演武会を開かなければなりません。ブロックの核になる中心道場の何周年記念演武会を中心に何年かに一度と考えています。
田無25周年演武会が終わりましたので今度は合気道小林道場45周年と銘打って京都合気道連盟にお願いして、由緒有る京都武徳殿で合気道小林道場と交流ある海外合気道連盟に呼びかけ演武会を考えています。世界中の人の日本観光はまず京都です、憧れの京都で稽古と演武会に参加できるとなれば海外からも沢山の合気道家が来日するでしょう。正式には京都合気道連盟にはまだ時間があるのでお願いしていませんが。・・・・皆さん夢を持ちましょう。