2016年 04月 20日
山口清吾師範 20年祭 |
4月9日(土) 新橋ヤクルトホールに於いて山口清吾師範の御子息であられる山口哲師範主催の山口清吾師範の20年祭か行われました。午前中は山口清吾師範の映像上映、13時から山口清吾師範が指導された各団体の師範演武、賛助演武として神影流、私も合気道の演武スタイルが違うので賛助演武として短時間でしたが演武させて頂きました。
私が本部道場に入門したのは昭和30年(1955年)春でした。道場にはまだ戦災で住むとこ無くした2家族がベニヤで仕切り住んでいる様な状態でした。
私を含む内弟子達の指導先輩として当時、多田宏3段、有川定輝3段、山口清吾3段が居られまっした。3人の先輩は個性豊かで合気道稽古スタイルが全然違います。
多田宏3段は早稲田大学の空手部出で卒業後、合気道を修業され武術一筋の道を歩かれていました。抜群の体力、気力で我々内弟子相手に豪快な技をされました。鍛える為に我々相手に座り技1000本等々今では考えられない稽古の相手をさせられました。
有川定輝3段は本部道場に住み込み朝稽古後勤めに行かれていました。生い立ち、学歴、勤め先等一切我々には語らず不明でした。空手を修業されていて、技は相手を容赦なく捻り、叩きつけ怪我をさせる事いとわずでした。演武の受け身を皆嫌がりました。私は柔道をしていて受身が出来、身体が柔らかく怪我をしませんので初期の演武会の受け身の相手に良く私は使われました。
山口清吾3段は玄米食の健康法の関係で合氣道をされるようになられたと聞いています。体型はやせ形で背が高く、剣術を修業されていたので、合気道の技は流れを重んじた体捌きで華麗な動きをされていました。フランス人等外国人に好かれていました。話しとコーヒーが好きな方で稽古が終わると道場近くの喫茶店で何時間でも話をされました。
山口清吾師範は昭和33年頃にビルマ(現在はミャンマー)国の軍隊に指導に行かれました。2年か後に山口師範の助手として私がビルマに派遣されることに成りました。私はあまり気のりしませんでしたので、大使館に手続きに行くのを伸ばしていました。その内にビルマの政権交代で外国人教師は雇わないと云う言になりました。軍人を5名合気道、柔道修業の為5名来日しました。彼等稽古と世話を山口清吾師範と共に2年間しました。此の様な関係で山口清吾師範師範とは親しくさせて頂きました。
演武会は山口清吾師範の指導を受けた方々が現在では皆さん高段者に成られで日本各地で指導されて居られます。約30道場の師範が一人6分間の演武で会場をもりたてました。その間神影流居合の宗家が竹を真剣で切る演武で華を添えてくださいました。その後主賓として来場された植芝守央道主がご挨拶されました。
懇親会は銀座のライオンビヤホール5階の会場を借り切り行われました。山口師範を慕う多くの参加者が集まり山口清吾師範の思いで話を語り合いました。ヨーロッパで8段位の得ている山口師範の指導を受けたフランス人、テッシュエ師範も来日して参加されていました。私は彼を本部入門の白帯時代から知っていますので、演武しなかった理由を聞くと怪我していると云っていました。
by shihan_aikido
| 2016-04-20 15:04