ユリ |
カレンダー
以前の記事
2020年 07月 2020年 06月 2020年 01月 2019年 12月 2019年 11月 2019年 10月 2019年 09月 2019年 07月 2019年 04月 2019年 01月 2018年 07月 2018年 06月 2018年 02月 2018年 01月 2017年 12月 2017年 11月 2017年 10月 2017年 09月 2017年 08月 2017年 06月 2017年 05月 2017年 04月 2017年 03月 2017年 02月 2017年 01月 2016年 12月 2016年 11月 2016年 10月 2016年 09月 2016年 08月 2016年 07月 2016年 06月 2016年 05月 2016年 04月 2016年 03月 2016年 02月 2016年 01月 2015年 12月 2015年 11月 2015年 10月 2015年 09月 2015年 08月 2015年 07月 2015年 06月 2015年 05月 2015年 04月 2015年 03月 2015年 02月 2015年 01月 2014年 12月 2014年 11月 2014年 10月 2014年 09月 2014年 08月 2014年 07月 2014年 06月 2014年 05月 2014年 04月 2014年 02月 2014年 01月 2013年 12月 2013年 11月 2013年 10月 2013年 09月 2013年 07月 2013年 06月 2013年 05月 2013年 04月 2013年 02月 2013年 01月 2012年 12月 2012年 11月 2012年 10月 2012年 09月 2012年 08月 2012年 07月 2012年 06月 2012年 05月 2012年 04月 2012年 02月 2012年 01月 2011年 12月 2011年 11月 2011年 10月 2011年 09月 2011年 08月 2011年 07月 2011年 06月 2011年 04月 2011年 03月 2011年 02月 2011年 01月 2010年 12月 2010年 11月 2010年 10月 2010年 09月 2010年 08月 2010年 07月 2010年 06月 2010年 05月 2010年 04月 2010年 03月 2010年 01月 2009年 12月 2009年 11月 2009年 10月 2009年 09月 2009年 08月 2009年 07月 2009年 06月 2009年 05月 2009年 04月 2009年 03月 2009年 02月 2009年 01月 2008年 12月 2008年 11月 2008年 09月 2008年 08月 2008年 07月 2008年 06月 2008年 05月 2008年 04月 2008年 03月 2008年 02月 2008年 01月 2007年 12月 2007年 11月 2007年 10月 2007年 09月 2007年 08月 2007年 07月 2007年 06月 2007年 05月 2007年 04月 2007年 03月 2007年 02月 2007年 01月 2006年 12月 2006年 11月 2006年 10月 2006年 09月 2006年 08月 2006年 07月 2006年 06月 2006年 05月 2006年 04月 2006年 03月 2006年 02月 2006年 01月 2005年 12月 リンク
検索
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
2020年 07月 03日
新型コロナの感染防止で外出自粛がやっと解除されました。合気道小林道場全道場でも稽古を自粛していましたが、稽古時間1時間、マスク着用、道場入退出時の自主的な手の消毒で稽古が再開されました。会員の中では6月中の稽古は自粛休会で、7月から再開希望のメールも結構な数入りましたので、平常の稽古が出来るか心配していました。しかし、外出自粛で退屈していた多くの会員が、稽古時間には顔を揃えてくれました。この新型コロナにもかかわらず、新規入会者が各道場有るのには心強い気持ちになっています。 自粛期間の間、長期間に身体を動かして無い人が多いので、小林道場指導部では準備体操、合気体操そして基本の体捌きを重点にし、稽古時間も全道場1時間にして怪我や体調不良者が出ないように注意しています。終了後の自主練習も30分以内としました。稽古中も原則として、マスク着用ですので、受け身が続くと呼吸が苦しくなるので、起き上がった時にマスクの真ん中を引っ張って大きく息を吸ったりしています。 6月20日(土)の小平道場朝6時半からの稽古で常連のメンバーが揃いました。今までは、朝稽古後皆でお茶を飲み、稽古を希望する人は自主稽古を続け、書道の稽古をしたい人は書道をしていました。しかし、しばらくこの行為も中止です。稽古後、私が外を見ますと駐輪場の花壇にバラの木が植わっています。今は大きくなり2階の手すりまで届いています。そのバラが咲き終わり、内弟子のエリカが植えたユリが成長して丁度大きな花が咲き出しました。私の手のひら位ある大きな花です。 ユリを見ると思い出す言葉が有ります。結婚したての頃、女神様の母親から手紙が来ると文末に必ず「下見て暮らせユリの花」という文章が書かれています。昔のユリは下を向いて必ず咲いていたのです。人生上を向いて夢を見るのは良いが、足元固めて地道に生活しなさいという戒めの言葉です。最近のユリは品種改良され、上を向いて咲く花も有り、花も考えられない位、大きな花に代わっています。 昔の言葉も時代と共に通用しない面も出てきます。古い事に執着すると取り残されます。合気道の精神、基本の技そして基本の稽古方法は変える必要は有りません。取り巻く、世の中の事は時代に合わせて変えて行き、小林道場の基本精神、一人でも多くの人に合気道を実践して仲間を増やして行きましょう。 #
by shihan_aikido
| 2020-07-03 09:27
2020年 06月 17日
私は1955年4月本部道場入門以来、全日本合気道演武会は第1回から全て参加してきました。 残念ながら、今年の全日本合気道演武大会は中止となり、その記録も58回で途切れる事になりました。 毎年4月29日に合気神社(茨城県笠間市)で行われる合気神社大祭も新型コロナウイルスの関係で今年は中止になりました。合気神社大祭の参拝も毎年楽しみにしていました。 5月25日に緊急事態宣言が解除になりました。弘明道場長の提案で私、弘明道場長夫妻と孫の香穂弐段、エリカ(ハンガリー人女性、結び基金により1年間内弟子として滞在中)の5名で合気神社と愛宕山神社に参拝に行って来ました。緊急事態宣言は解除されましたが、高速道路はまだ渋滞しないだろうと考え、小平道場を10時出発しました。毎年の例で守谷のサービスエリアでトイレ休息しました。私が思っていた以上に、高速道路の車やサービスエリアには人出と車がありましたが、何の問題も無く合気神社には12時前に到着しました。サービスエリアのトイレ休憩を入れても僅か2時間です。快適なドライブ日和でした。勿論、合気神社には誰も居ません。昨年の大祭では1千人以上の参加者が有りましたので本当に静かでした。しかし、神殿の雨戸は全て明け払われていました。合気神社、道場通路には落ち葉も無く綺麗に掃き清められていました。気持ち良く参拝できました。道場の方にも回って見ましたが、人っ子一人いませんでした。 神社の目の前には岩間神信合気道修練会の斎藤仁平師範のご自宅があります。すぐに、斎藤師範の自宅兼道場を訪ねましたが、お留守でしたので残念ながらお会いできませんでした。 その後、私は愛宕神社に車で直行し参拝に行きました。弘明道場長、香穂そしてエリカは中腹駐車場から330段の階段を登って私と拝殿前で合流参拝しました。 写真:合気神社で祝詞を奏上される翁先生 昔の話ですが、本部道場内弟子達は合気神社開催の為に2、3日前から岩間に派遣されます。岩間の斎藤守弘師範や道場生も手伝ってくれますが、広い敷地の落ち葉掃きや雑草を抜く仕事は半端なく大変でした。天気の良い日なら気分が良いのですが、雨でも降ると本当に嫌になりました。合気神社大祭といっても私が入門した当時は全員で15名~20名前後が参列するだけです。 今の様に社殿が無く、翁先生が神殿の前に正座し、祝詞をあげられます。後ろで早く終わらないかなと一緒に唱えながら、正座して待っていました。雨が降ると正座して祝詞をあげておられる翁先生に傘をさします。この時は傘をさす係は正座しなくて済みますので足の痺れを気にせずに済みます。 今思えば、本部道場の内弟子時代、掃除や稽古衣の整理・整頓そして先輩の代稽古を率先して行なうなど、直接稽古指導と関係ない様な道場の雑用経験が自分で道場を開設した時に非常に役にたちました。皆さん、色々な体験を積んで今後の人生に役に立てて下さい。
#
by shihan_aikido
| 2020-06-17 11:20
2020年 01月 29日
新年に成り合気道小林道場にとって素晴らしいニュースが入って来ました。合気道本部道場1月12日の鏡開きで、今年の推薦昇段者が発表されました。そこに合気会の最高段位八段昇段者が6名おりました。なんと、6名の内半分の3名が合気道小林道場指導部員として活躍し、その後独立して各道場を持った方です。合気道研心会・畑山憲吾師範、合気道堀越道場・堀越春芳師範、A&P石垣道場・石垣晴夫師範です。指導した私としても本当に名誉な事と喜んでいます。 1、畑山憲吾師範は秋田県出身、秋田で合気道の稽古を始めました。大学卒業後上京し東芝府中工場に勤務されました。その後も稽古を続ける為に合気道小平道場に入門しました。しばらくして所沢道場に住み込み内弟子をしながら東芝勤務をつづけていました。何年かして、合気道専門家道に進みたいと希望され私に申し出が有りました。当時の合気道小林道場では、まだ内弟子として扶養する事が困難でしたので、明治大学合気道部の後輩でドイツ合気会、浅井勝昭師範の元に派遣しました。 その後、合気道小林道場は東京の郊外、三多摩、埼玉、神奈川そして千葉と大きく発展し、専門指導員不足に成りました。畑山師範にドイツに残るか、帰国するか本人の希望を確認しました。日本に帰国すると希望されましたので又小林道場指導部員として受け入れました。帰国後、小平道場会員の貴代さんと結婚され所沢、狭山、そして本川越を中心とした西武線沿線の道場を指導をして貰いました。そのご、狭山に自宅兼道場を開らかれ小林道場から独立しました。息子さん弘氏も合気道専門家として活躍大きな組織を持たれています。 2、堀越春義師範は法政大学で合気道部に所属、故有川本部師範の指導を受けました。身体も大きく、背も高いので豪快な技をします。大学卒業後会社勤め中、所沢道場に入門し稽古を再開されました。その後、小林道場指導部員を希望されました。海外指導経験として、台湾、台北市龍山道場の指導に三カ月行かれました。帰国後、小林道場埼玉県春日部地区の指導担当者として、合気道普及に努力されました。その後、独立され、現在は春日部道場、せんげん台道場、加須、宮代、羽生、岩槻等々で指導され、海外にも多くの国に指導に行かれています。彼も息子さんが副道場長として活躍されています。 3、石垣晴夫師範は埼玉大学合気道部の一期生です。合気道部を設立した今村樹憲氏と同級生で友人でした。今村氏は本部道場指導部時代に私が指導していた新橋道場で初段を取得しました。それを機会に大学に合気道部設立の希望を私と一緒に当時の植芝吉祥丸先生に相談しました。吉祥丸先生は「小林、お前が土曜日昼休みに指導し、総武線沿線なのでその後新橋を指導しろ」との一言で埼玉大学合気道部が発足しました。石垣氏は卒業後、長野県松本に移住。仕事の傍ら合気道の普及に乗り出しました。信州大学合気道部を結成しました。4,5年後、私が埼玉県浦和方面での合気道普及を提案しました。北浦和に帰ってきて、A&P石垣道場開き埼玉県浦和市を中心に道場を広げています。埼玉県合気道連盟理事、長野県合気道連盟主席師範、ヨークカルチャーセンター合気道教室師範、イラン合気道師範、台湾共進会技術顧問の役職に就いています。 以上の様に私の指導方針「一人でも多くの人に合気道を」で地道に稽古を続けて素晴らしい指導者が育っています。今年は私の干支、ねずみ年です。私にとって7回目干支です。満84歳に成りますが、皆さんと一緒に合気道の本質「投げ、投げられて稽古」を貫いて行きます。今年の海外指導も、スウェーデン、台湾が決まっています。 私に会うと、海外の道場又組織の指導者の皆さんが是非、観光がてら来て下さいと云ってくれます。有難い事です。一緒に修行、精進して行きましょう。 #
by shihan_aikido
| 2020-01-29 03:05
2020年 01月 15日
私達夫妻と弘明道場長夫妻は12月23日、羽田空港ホテルに宿泊、朝早い便で弘明道場長夫妻と台湾台北市に飛びました。理由は孫の香穂が来年2月まで台北市の師範大学に留学中なので逢に行きました。訪問一週間前に台湾の合気道協進会師範の呂承栄氏が小平道場を訪問したのですが、私達の台湾訪問の件を話しませんでした。私達の訪問を台湾合気道関係者に知らせれば、稽古と歓迎会が毎日の様に予定されるからです。 台北市の中心街に有るホテルに着き、夕方台北の香穂の通っている師範大学合気道部の稽古を見学に行きました。師範大学はホテルからタクシーで10分位の台北市中心街の便利な所に在ります。香穂の宿舎は大学の構内に在りますので、香穂の部屋を見学しました。6畳ぐらいの広さを二人で住んでいるそうです。 バス、トイレ、冷蔵庫は有りますが、自炊の出来るような設備は有りません。殆ど学食か外で食事の様です。 道場は宿舎の前の建物が体育設備の建物です。道場は200畳位の広さが有り半分は板の間です。師範大学の合気道部員、約20人、一般の社会人が4,5名稽古していました。女子部員の方が多いい様です。指導は50代の人が指導者です。 私達家族が道場に入ると指導の先生は挨拶に来てくれました。技は後ろ技を稽古していましたが、基本に忠実で確りした稽古でした。2時間の稽古が21時に終わりました。私達に挨拶をと責任者に促されました。私が「孫の香穂がお世話に成っている」と感謝の言葉を延べました。写真を撮っていた部員が日本語を喋るので通訳を頼みました。しかし、急に通訳を頼まれて、緊張したので言葉がしどろもどろに成ってしまいました。見かねて弘明道場長が変わって通訳をしてくれました。弘明道場長も台北の東呉大学に1年間留学経験が有りますので中国語は堪能です。最後に私達を交えて部員全員で記念写真を撮りました。 翌朝、弘明道場長がメールを見て、台湾合気道協進会の理事長夫妻や呂承栄師範から台北に滞在しているのに何故知らしてくれないと、苦情のメールが入っていると叫びました。昨夜、師範大学合気道部員と一緒に撮った写真を誰かがSNSに流したのです。それを見た役員からの苦情で、昼は観光と今夜一緒に食事をとの事です。昼の観光と夜の食事会は私達も香穂との行動予定を立てていましたので勘弁して貰い、昼の食事会だけにして貰いました。一生懸命私達を歓迎して下さる気持ちには感謝の一言です。内密の台湾旅行は出来無い事を実感しました。 台湾の合気道会も年一度全台湾の合気道道場、組織が集まり盛大な演武会を開いています。この3年間、私は全日本合気道演武大会と中華民国合気道演武大会の日程が重なってしまいました。その為に全日本演武大会を優先するので参加出来ずにいました。今年は東京オリンピック大会の準備の為に全日本合気道演武大会は九段の日本武道館が使用できません。全日本演武大会は群馬県高崎駅近くに有るスポーツアリーナで5月16日(日)に開催されます。その為に5月10日に中華民国合気道演武大会の台北市立体育館で行われます演武大会には参加可能です。午前中が講習会、午後から演武会だそうです。全台湾の合気道修行生が約1000名集まり演武します。 今年は4年振りで私も中華民国合気道演武大会に是非参加したいと思っています。3月頃から私と同行する参加希望者を募ります。合気道小林道場直轄、傘下関係団体の皆さん、是非中華民国合気道演武大会に是非一緒に行きませんか。 #
by shihan_aikido
| 2020-01-15 13:35
2019年 12月 04日
戦後初めて合気道本部道場内弟子に成ったフランス人、「アンドレ・ノケ氏」の事を調べる為に来日したフランス人の関係者から連絡が有り、11月23日に午前9時半に小平道場でインタビューを受けました。 何故、私に連絡が有ったかというと、彼が本部道場に取材に行ったのですが、本部道場には昭和30年(1955年)に初めて内弟子に成った「アンドレ・ノケ氏」の入門記録や写真は有るのですが、彼の事を知っている人が誰も居ないとの事でした。 私は昭和30年(1955年)4月本部道場に入門しました。その半年後の昭和30年9月の日本橋高島屋の屋上で戦後初めて合気道が一般に公開されました。この様な状態なので、当時の合気道は本部道場といっても朝と夕二回の稽古でした。稽古人数は内弟子含めて、朝6時半~7時半の稽古は10人~15人位で、18時半~19時半の夜の稽古も同じ位の人数でした。本部道場の会員全体で40名~50名人位です。 当時の本部道場道場長、植芝吉祥丸先生は合気道では生活出来ず証券会社のサラリーマンをやっていました。 この様な状況の中で、フランス人の「アンドレ・ノケ氏」が内弟子として住み込みました。これは、昭和28年に阿部正師範がフランスに渡り初めて合気道をフランスに広めました。その推薦で当時40歳ぐらいの「アンドレ・ノケ氏」が来日したのです。柔道をしていたので体はガッチリしていました。 戦後まだ10年です。まだまだ食べるものが世間一般には十分では無かった時代です。今考えても良く内弟子として外国から合気道を修行する為に来日したと感心しています。本部道場には当時も内弟子が居ました。その内訳は、 1、専門家を目指す者 2、住み込んで修行しながら会社に行く人 3、朝晩稽古しながら大学に通う人等です。 当時の本部道場は木造の道場で、冬は一番辛い時期です。内弟子達は道場の奥に有る6畳の部屋で生活していました。天窓が有り光は入るのですが、日は当たりません。当時の冬は今よりも本当に寒かったです。日の当たらない控室に暖房は火鉢一つです。内弟子達は寒いので一人の時は股火鉢(火鉢の上に跨る)をしたり、何人か居る時は手、足を温めるのがせめてもの慰めでした。下の写真左から2人目が私です。あまり寒いと稽古の無い時は布団に潜り込んでいました。アンドレ・ノケ氏も私達と同じ生活をしていました。 私とアンドレ・ノケ氏とは何となく気が合い演武会での受は私がよく指名されました。この写真は池袋のデパートの屋上で演武の写真です。2年滞在したと思います。彼はフランスに帰国後合気道の普及に専念されました。 下の写真に写っている田村信義氏、野呂昌道氏もフランスに昭和40年頃フランスに渡り合気道の普及、発展に努力されました。その為に、現在ではフランスの合気道人口は日本に匹敵するほど多いいといわれています。 アンドレ・ノケ氏が帰国の時に、私にもフランスに来ないかと誘われた事も思い出します。20年位後にアンドレ・ノケ氏が再来日した時に日本のフランス大使館から電話が私に有り、アンドレ・ノケ氏が私に是非会いとの事で逢いに行った記憶が有ります。 今回、アンドレ・ノケ氏の関係者が持ってきた写真は、私も初めて見る写真です。又私のアルバムに張って有る写真も掲載します。 20歳の頃の私達の姿と当時の本部道場を見て下さい。 #
by shihan_aikido
| 2019-12-04 17:37
2019年 11月 23日
ドイツの首都ベルリンは1961年から1986年迄の冷戦時代に東西に分断する壁が有り、今年の11月10日にベルリンの壁崩壊30年の記念式典が行われたとTVで報道していました。 私はベルリンの壁が有った時の1977年夏に合気道指導の為にベルリンを訪問しベルリンの壁を見て、触った経験が有ります。 明治大学合気道部の後輩、浅井勝昭師範昭和38年(1936年)大学卒業と同時に、時の本部道場長植芝吉祥丸先生の要請で合気道指導の為にドイツに初めて派遣されました。 当時のドイツ武道界は柔道連盟が強力な権限を持っていて、柔道場を使用して合気道の稽古をしようとすると、合気道は柔道連盟の傘下に入らなければ稽古させないという通達が柔道連盟から出ました。浅井師範は合気道と柔道は違うものだという強力な信念から、柔道連盟の傘下を拒否しました。ドイツ全土の柔道の道場使用が出来ず稽古場確保に苦慮したそうです。 1年、2年と困窮した生活の中、稽古場確保に奔走しました。少しづつ理解者が出てきて、私が1977年夏に訪問した時にはドイツ全土に立派な合気道組織が確立されて居ました。浅井師範の努力、苦労に頭が下がりました。 私のドイツ滞在中ベルリンの道場からも是非ベルリンに指導に来て下さいと要望が有りました。私も東西分離のベルリンを見ることに興味が有りましたので、喜んで指導に行きました。稽古後観光に連れて行ってくれました。私が東ドイツに行きたいからというと駅に連れて行ってくれました。 地下鉄で山手線みたいにベルリンの地下を電車は幾つかの駅を回っています。東ベルリン地区の一つの駅だけ封鎖が解除されていました。外国人と特別なビザを持ったドイツ人だけが駅の改札を出て東ベルリンへ入ることが出来ます。私は東ベルリンに観光に行ってきました。当時の東ベルリンは戦火の後がまだまだ復興されておらず、第二次世界大戦で破壊されたままの場所が多く残されていました。東西ベルリンの経済格差が素人の私にも歴然と分かりました。 この様な事をテレビを見ていてふと思い出しました。 #
by shihan_aikido
| 2019-11-23 18:15
2019年 10月 14日
本部道場の朝稽古をしていて、就職試験日を忘れてしまったのです。学校の就職課から電話が有り、以後就職を紹介しないと電話が有りました。戦後12,3年就職難の時代です。そのまま卒業です。 4月に成り、家で稽古以外はぶらぶらしていました。父が「保雄、仕事は」と聞かれました。怒られるかと思い小さな声で「無い」と答えると父から、意外な言葉が返ってきました。一言「遊んでろ」です。直ぐ上の兄貴は日比谷高校から慶応大学工学部で特待生、学費免除、入社する会社から奨学金まで支給されていました。(後に工学博士、農学博士を取り、日本の紙関係の最高権威者に成りました。)期待はそちらに向いていましたので、私の事は好きな事を遣らせようと考えていたらしいです。 時間が有りますので、一日中本部道場で稽古をして内弟子同様の生活を送りました。当時,日本人は、ヨーロッパ、アメリカに追いつけ、追い越せと一生懸命働きだしました。テレビのコマーシャルに「24時間戦えますか」の標語が出たくらいです。 社会には経済的に少しずつ余裕が出てきました。合気道も新聞や雑誌に新しい武道として取り上げられ稽古する場所が少しずつ増えてきました。吉祥丸先生は若い私達を指導者として派遣したのです。22〜3歳の元気盛りですので、学生の部活の様な稽古をして、一般人にとっては乱暴な稽古なので「小林は指導者には適さない、と苦情の電話が何回も本部に有った様です。有楽町のガード下に在った産経学園合気道教室(隣はボディビル教室で作家の三島由紀夫氏がきていました)では土曜日の午後の稽古で3週間連続して救急車を呼んだ時にはさすがに吉祥丸先生に怒られました。 当時大卒の給料が1万2~3,000円でしたが本部道場が私に支給されたのは1,000円でした。私は合気道の稽古が出来れば良いので苦に成りませんでした。当時は合気道本部道場もそれほど経済的には困窮していました。 結婚して弘明が生まれたとき、女神様が「こんな給料では生活できない、あなたは、弟子だから言えないでしょうが、私は赤旗を持って本部道場に座り込む」と言い出しました。私は馬鹿だから当時の吉祥丸道場長にこの話をしたら「小林君の奥さんは怖いからと」1000円昇給させてくれました。 1960年代の学生運動が私の運命を変えました。1年、2年と大学が閉鎖され合気道部員の稽古出来なく成りました。大学で稽古出来ないなら小平の自宅駐車場に道場を創り稽古しようと考えました。即実行です。自分で建築し出しました。1969年の年賀状に4月道場開きをするから来て下さいと書いて年賀状を出しました。不思議と協力者が表れて4月に夢にまで見た合気道小林道場が開設して、学生達と稽古を開始しました。 学生達と合気道を楽しそうに稽古している姿をみて、通り掛った人が私の子供に稽古を教えてとか自分も稽古したいと自然に増えていき、世界40ヵ国と交流有る小林道場が生まれたのです。 これも、佐居守氏との出会いが無ければ現在の合気道小林道場はなかったのです。人と人との出会いを大切にし、好きな合気道で生活出来たのは妻である保子の理解と家族、親、そして大学合気道部の協力が有ったからです。心より感謝いたします。皆さん自分の夢を色々と持っていると思います。夢を人に語り、実行に移す努力をして下さい。思い続ければ必ず達成できます。
#
by shihan_aikido
| 2019-10-14 15:11
2019年 09月 06日
「秘境3絶景と熊野三山 観光列車「天空」と案内人とめぐる高野山3日」というJTBのツアーを見つけて行ってきました。ホテル浦島と高野山宿坊内に宿泊に惹かれたのです。 昨年(2018年)9月に明治大学合気道部を私と一緒に創設した佐居守氏が亡なったと家族から連絡が有りました。彼の遺言で葬式、香典、墓無用との事で焼香にも行けませんでした。考えて見れば彼が居なければ合気道の稽古はしていましたが、明治大学体育会合気道部を結成しなかったかも知れません。そして、現在世界40ヵ国と交流の有る合気道小林道場の存在も無かったと思います。 私は昭和30年(1955年)4月に明治大学に入学と同時に合気道本部道場に入門し、合気道の稽古を始めました。1年後、本部道場にプロレスラーの様な体格をしていて、物凄い力の強い明大生1年生、佐居守君が入門してきました。同窓という事で直ぐ友達になりました。彼の実家は和歌山紀州勝浦出身で、家はマグロ船の網元です。和歌山新宮に合気道の道場が有り、そこで高校時代から稽古していたのです。(時代が少しずれますが、バーバラ師範が来日し始めて合気道を住み込み修行で稽古していた道場です。) 私は毎日の様に、本部道場に稽古に行っていましたので、自由稽古の時に佐居君と稽古しました。諸手取呼吸法の時など強い力で握られると、握られた私の指が自然に「ちぢむ」くらいの力です。一寸と頑張られると技は掛かりません。 しかし、毎日、毎日稽古していると、慣れてきて相手の弱点が分かるようになってきました。力の強い相手に対する対処法が身に付いてきたのです。また当時から私はタフで疲労回復が人より早かったのです。受け身を素早く取り、相手に息つく暇なく受け身を取らせるのです。相手のスタミナがきれ、息が上がって来ます。「小林、お前と稽古すると疲れる」と言わすのが快感でした。 このスタミナの素は毎日の皇居の回りを走ったからです。 私の実家は九段の坂を登り切った角から2軒目です。今では皇居の回りを走る人達は沢山いますが、昭和30年頃は誰も居ません。早朝、自宅から皇居一周4キロを走り、本部道場の朝6時半からの稽古に行きました。当時は東京中に都電が走っていて、自宅前から12番に乗ると「新宿歌舞伎町」が終点です。そこで、11番に乗り換え「抜け弁天前」で降りると本部道場は直ぐです。この朝稽古に通っていたのが私の人生を変えてしまったのです。 次回に続く.......
#
by shihan_aikido
| 2019-09-06 09:59
2019年 07月 25日
先日、所要が有って日比谷公園前の帝国ホテルに行きました。27階の窓から日比谷公会堂が見えました。1963年(昭和38年)10月1日に第3回以降の合気道演武大会が日比谷公会堂で開催されたのを思い出しました。当時は合気道創始者植芝盛平翁先生もお元気で演武会に参加されました。 植芝盛平翁先生は演武会の2、3日前から茨城県岩間の道場から上京されます。内弟子の私達は平常の稽古の他に演武会の準備と盛平翁のお世話で、てんてこ舞いの忙しさです。 演武会の当日、私は盛平翁先生のお世話係の担当に成りました。演武会は1時から始まります。道場長の植芝吉祥丸先生、内弟子達は本部道場には午前10時頃には準備の為に出かけてしまいました。道場には盛平翁先生と私と二人きりです。昼食を済まし、13時頃に成ると盛平翁先生は「わしは演武会に行かなければ」と言いだしました。 盛平翁先生の出番は16時頃です。15時半にタクシーで出れば充分です。盛平翁先生が会場に着くと、そのまま演武会場に出てしまいます。そうすると、以後の演武者が演武出来なく成ります。私達内弟子達の演武は出来なくても問題は起こりませんが、地方からの演武者が演武できないと大問題になります。本当に引き留めるのに苦労しました。 タクシーの運転手に言って遠回りをしてもらった事も有ります。翁先生から「新宿から日比谷に行くのに、何故上野を通るのだ」と怒られた事も有りました。今は楽しい思い出になっています。 合気道探求第58号が発売になりました。 http://www.aikikai.or.jp/about/information/detail.html?news_id=255 私のインタビュー記事が載っています。一般書店でも購入できますが、道場で一括で購入するため購入希望者を募っています。希望者は指導員まで申し出て下さい。 サイン入りでお渡しします。 #
by shihan_aikido
| 2019-07-25 16:37
2019年 07月 11日
7月7日(日)に朝日新聞出版社のアエラwithキッズという雑誌の取材を受けました。子供クラスの取材です。女性の記者と男性のカメラマンが道場にきました。相撲、柔道、空手等の武道関係の取材の一環としての取材で、事前に質問を送ってきていました。 質問項目 1:武道としての「合気道」の「道」とは何ですか。 2:この教室を始めた理由とお稽古内容を教えてください。 3:子どもはここで何を学び、どのような力を身につけていきますか?また先生はどのような力を育てたいとお考えですか? 4:子どものモチベーションを保つために、保護者は子どもにどのように関わるのがいいでしょうか? 5:レッスン時間以外で、子どもはどのような練習、努力が必要ですか? 6:可能でしたら、レッスン以外にかかる費用(試験、大会出場など)の目安を教えてください。 指導する先生のへの質問は以上ですが、その他に通わせている保護者や通って来ている子供達へも直接インタビューしていました。その内容は雑誌が出版されてから読んで下さい。 私が皆さんに知らせたかった事は、取材に来た女性記者が思わずつぶやいた一言です。 合気道小林道場の子供クラスの指導を見て「心からホットしました。試合の有る野球、サッカー、剣道、相撲、空手等子供の練習を取材して来ましたが、子供を練習させている親御さん達は本当に子供の為を思い熱心に子供達と向き合っています。指導する先生や見学している親御さん達が子供達に向かって、大きな声で叱咤激励するのは良い事と思います。しかし、段々と白熱してくると怒号、罵声を浴びせる様な時が有ります。『元気が無い、もっと早く、機敏に動け、よそ見をするな、そんなのが取れないのか』・・・等々です。」 合気道の稽古を見て、「指導する笠原先生と子供達が、笑顔で楽しみながら技の稽古、そして、結構激しい補助体操をしています。本当に感激しました」と言ってくれました。合気道の稽古の良さを的確に表現した一言です。 事前に電話で取材の依頼を受けた弘明道場長が記者に聞きました。「何故、小林道場を選んで取材に来たのですか?」回答は「各道場のホームページを見て来ました。合気道小林道場のホームページが分かりやすく、かなり大きな組織で稽古時間も多いいので取材に来ました。実は私田無に住んでいます、近いので」と答えてくれました。どんな記事になるのか楽しみです。 私は「是非合気道の稽古をして下さい。」と言っておきました。 雑誌が発行されたら、皆さんにお知らせします。 #
by shihan_aikido
| 2019-07-11 16:15
|
ファン申請 |
||