戦後合気道群雄伝 加来耕三著 |
今年は歴史作家の加来耕三氏と名刺交換をしました。本部道場の会合では何回かお会いしていますが個人的に話したのは初めてです。名刺交換の後「戦後合気道群雄伝」の続編は出ないのですかと聞きましたら、加来耕三氏曰く「皆話したがらないので」といっていました。植芝吉祥丸先生始め多くの師範が鬼籍に入っています。現存する師範達がまだ自分の立場だけで語ると批判、反論、誤解そして影響も多く出ますのであまり語りたがらないのだと思います。
私が道歴50年記念で、出席して下さった方々にお配りした「我が道 合気道」では、この頃の事を私が体験した範囲で書きました。書きたい事はまだまだ沢山有ったのですが時間と紙面の都合であの様な本になりました。それでもかなりの多くの人が読み関心を示してくれました。もし「我が道 合気道」を読みたい人は残部が少し有りますので指導部まで申し込んで下さい。本代 1500円 送料込みで2000円です。
続編とは行かないまでも月1回位の割合でこのブログに少しその頃の事を書いて見たいと思います。
私が合気道を始めたのは昭和30年(1955年)4月です。「戦後合気道群雄伝」の書の中に出てくる署名な殆どの師範や先生方には直接指導を受けました。翁先生、植芝吉祥丸先生のお供や道場での会合、面談に同席させて頂き記憶しているエピソードも沢山有ります。「戦後合気道群雄伝」に書いてある事を現場で体験し、また見聞きした事もたくさんあり懐かしく思い出されます
「戦後合気道群雄伝」にまず出てくる戦災で焼け残った道場に近所の罹災した人達が占拠した話が出てきます。先に書きました様に私が入門した昭和30年(1955年)4月時点では2家族がまだ残っていて70畳の道場の20畳分は戸板一枚で仕切って住んでいました。「我が道 合気道」にも「私は東京新宿にある本部道場を訪れました。昭和29年の寒い頃でした。当時、本部道場にはまだ戦災で家を失った人たちが住んでいました。ですから生活感があり、サンマの臭いが漂っていたのを覚えています。」と書いています。
道場の外の板塀は所々壊れ今にも倒れそうでした。畳はぼろぼろで、稽古が終わると藁くずが塵取りに掬うほど出ました。その為道場の畳は修理を重ねていますので普通の畳の半分ぐらいに薄く成っていて、夏は膝行や座り技をすると擦りむけた膝に藁が刺さり直ぐ膿んで血だらけで痛かったです。よく我慢して稽古をしたものだと思います。私は座り技が好きで本当によく稽古しました。前後の膝行は先輩の師範達も良く稽古しましたが膝行で回転する動きは私が考案したもので現在でも合気道小林道場以外で審査規定に入れている道場は皆無だと思います。
入門して3ヶ月立った頃、戦後初めて高島屋屋上での合気道演武会が行われました。演武では出場できませんでしたが、畳運びや下働きとして参加させて頂き各先生師範の演武も身近で見学する事も出来ました。(以後来月に続く)
昭和32年(1957年)頃 本部道場演武会
合気道創始者植芝盛平翁先生が一週間
講習会を行いその最終日に演武会をした。
昭和33年7月4日 山口師範ビルマ派遣壮行会
費用は日本政府の戦後賠償金から支払われた。
2年後私が助手として派遣される予定でしたが
クーデターの為中止
私もこの中に居ます。見つけて下さい。
旧本部道場写真 昭和32年頃
後の戸の所に戦災者が住んでいた。
立ち退き後男子更衣室にした。
左端の女性 妹の史子