2009年 03月 03日
戦後合気道群雄伝 その2 |
武道雑誌「秘伝」2009年3月号に、フランス在住である田村信喜師範の対談記事「仏国に渡った戦後の本部内弟子最古参の気概」という記事が掲載されています。その記事の中で昔の本部道場の、良い意味でのいい加減さが語られています。
田村師範は、「月謝なんて1回ぐらいしか払わなかった」とか、「昇段でお金も払った事が有りません。・・・」と述べています。
内弟子に入るときも、山口清吾先生の紹介で「お金の心配はいらない。僕が若先生(植芝吉祥丸先生)に頼んでやる」と言われて、布団を持って本部道場へ行ったそうです。
また、田村師範が当時の内弟子達の名前を挙げた中に、光栄にも私の名前も出てきます。田村師範が内弟子に入られたのは1954年頃です。1955年に私、野呂師範(フランス在住)、浅井師範(ドイツ在住)が入りました。山田師範(アメリカ在住)が1956年で、千葉(アメリカ)、菅野(アメリカ)、金井(アメリカ、故人)各師範が入門したのが1958年頃です。栗田(メキシコ)師範は本部道場で稽古していて、また五月女(アメリカ)師範は鍬守道場で稽古を始めて本部道場内弟子は1960年頃と思います。
さて私が合気道を始めた切っ掛けをお話ししたいと思います。私は小学生から講道館少年部で柔道を修行していました。友人の一人にお父さんが居合道連盟の会長をしている人がいました。名前は壇崎君です。そのお父さんである壇崎師範は、以前相撲取りでした。植芝盛平翁先生が戦前に、相撲取りの天竜を投げ弟子にしたのは有名な話です。その様な関係で以前相撲取りの壇崎師範は本部道場に出入りしていました。その紹介で不思議な武道があるからといわれて高校3年生の冬に見学に行きました。それが合気道だったのです。
当時習っていた柔道の試合は体重別ではありません。体重、身長一切関係なく相手と試合をする時代でした。私は身長160cm、体重60kg前後で、ずんぐりしていて柔道向きの身体でしたが、かなり小さい方でした。勉強よりも柔道の稽古に時間を掛けていましたので、講道館少年部より上がって来た私は講道館の先生方に可愛がられていました。講道館の段が欲しい人達と試合する定期試験の対戦相手をして講道館から小遣いを貰っていた事もありました。
しかし、体格の大きな人、体重の重い人との対戦では苦労する事が多くいきづまりを感じていました。
始めて合気道を見て、柔道と違って人が簡単に転がったり、投げられたりしているので興味が湧き、何か惹かれものを感じました。受験が終わり大学に合格して、1955年4月末に合気道本部道場に入門をしたのです。今から54年前の事です。
当時本部道場に稽古に来ていた人達は、大体下記の様な人達でした。
1,玄米の食事療法で有名なマクロビオティックの桜沢如一先生の門下生、
2,玄米食と二木式複式呼吸法の提唱者、二木兼三先生の門下生
3,西式健康法で有名な西勝造先生の門下生
4,精神修養団体、天風会の中村天風先生の門下生
5,戦前植芝盛平翁先生の指導を受けた武道家、軍関係の家族や子弟
1回の稽古に10人~15名で本当に僅かな人達でした。戦後の混乱で世間一般の人は生活するのが精一杯でしたし、武道などに関心を持つ人達はほとんどいません。稽古に来ている人は色々な団体に属している人が殆どで年配の人が多かったです。稽古以外で付き合うと柔道の仲間とは違い本当に今まで関心の無かった健康法とか精神修養とかの勉強になることが多かったです。その様な事で合気道に入門して1年ぐらい後には柔道より合気道の道場で過ごす時間が増えて行きました。
私が入門した時には植芝吉祥丸先生は合気道だけでは生活出来ず、証券会社に勤めていました。その様な関係で稽古は朝6時半~7時半 夜7時~8時の2回でした。私は朝合気道を稽古し夕方柔道を稽古していました。私が入門して2年後の1957年に植芝吉祥丸先生は勤めを辞め、合気道の普及に専心する事になりました。現在本部道場の稽古時間の様に一日5回の稽古になったのです。その時から大学の授業以外の時間は本部道場で過ごしていました。この時点で講道館は辞めました。
私の家は九段上ですので近かったのですが、家に帰るのが面倒な時は道場に寝泊まりしても誰も何ともいわれませんでした。私もいつの間にか内弟子の一人に加えられていました。植芝盛平翁先生の身の回りの世話を申し出れば内弟子達に大歓迎されました。
次月に続く
上から
写真1:旧本部道場
写真2:1959年頃 江ノ島海岸にて
田村師範、千葉師範、私、毎日新聞の記者
写真3:2008年10月 和歌山県田辺市 第10回合気道世界大会祝賀会にて
田村師範と40年振りの写真です。
田村師範は、「月謝なんて1回ぐらいしか払わなかった」とか、「昇段でお金も払った事が有りません。・・・」と述べています。
内弟子に入るときも、山口清吾先生の紹介で「お金の心配はいらない。僕が若先生(植芝吉祥丸先生)に頼んでやる」と言われて、布団を持って本部道場へ行ったそうです。
また、田村師範が当時の内弟子達の名前を挙げた中に、光栄にも私の名前も出てきます。田村師範が内弟子に入られたのは1954年頃です。1955年に私、野呂師範(フランス在住)、浅井師範(ドイツ在住)が入りました。山田師範(アメリカ在住)が1956年で、千葉(アメリカ)、菅野(アメリカ)、金井(アメリカ、故人)各師範が入門したのが1958年頃です。栗田(メキシコ)師範は本部道場で稽古していて、また五月女(アメリカ)師範は鍬守道場で稽古を始めて本部道場内弟子は1960年頃と思います。
さて私が合気道を始めた切っ掛けをお話ししたいと思います。私は小学生から講道館少年部で柔道を修行していました。友人の一人にお父さんが居合道連盟の会長をしている人がいました。名前は壇崎君です。そのお父さんである壇崎師範は、以前相撲取りでした。植芝盛平翁先生が戦前に、相撲取りの天竜を投げ弟子にしたのは有名な話です。その様な関係で以前相撲取りの壇崎師範は本部道場に出入りしていました。その紹介で不思議な武道があるからといわれて高校3年生の冬に見学に行きました。それが合気道だったのです。
当時習っていた柔道の試合は体重別ではありません。体重、身長一切関係なく相手と試合をする時代でした。私は身長160cm、体重60kg前後で、ずんぐりしていて柔道向きの身体でしたが、かなり小さい方でした。勉強よりも柔道の稽古に時間を掛けていましたので、講道館少年部より上がって来た私は講道館の先生方に可愛がられていました。講道館の段が欲しい人達と試合する定期試験の対戦相手をして講道館から小遣いを貰っていた事もありました。
しかし、体格の大きな人、体重の重い人との対戦では苦労する事が多くいきづまりを感じていました。
始めて合気道を見て、柔道と違って人が簡単に転がったり、投げられたりしているので興味が湧き、何か惹かれものを感じました。受験が終わり大学に合格して、1955年4月末に合気道本部道場に入門をしたのです。今から54年前の事です。
当時本部道場に稽古に来ていた人達は、大体下記の様な人達でした。
1,玄米の食事療法で有名なマクロビオティックの桜沢如一先生の門下生、
2,玄米食と二木式複式呼吸法の提唱者、二木兼三先生の門下生
3,西式健康法で有名な西勝造先生の門下生
4,精神修養団体、天風会の中村天風先生の門下生
5,戦前植芝盛平翁先生の指導を受けた武道家、軍関係の家族や子弟
1回の稽古に10人~15名で本当に僅かな人達でした。戦後の混乱で世間一般の人は生活するのが精一杯でしたし、武道などに関心を持つ人達はほとんどいません。稽古に来ている人は色々な団体に属している人が殆どで年配の人が多かったです。稽古以外で付き合うと柔道の仲間とは違い本当に今まで関心の無かった健康法とか精神修養とかの勉強になることが多かったです。その様な事で合気道に入門して1年ぐらい後には柔道より合気道の道場で過ごす時間が増えて行きました。
私が入門した時には植芝吉祥丸先生は合気道だけでは生活出来ず、証券会社に勤めていました。その様な関係で稽古は朝6時半~7時半 夜7時~8時の2回でした。私は朝合気道を稽古し夕方柔道を稽古していました。私が入門して2年後の1957年に植芝吉祥丸先生は勤めを辞め、合気道の普及に専心する事になりました。現在本部道場の稽古時間の様に一日5回の稽古になったのです。その時から大学の授業以外の時間は本部道場で過ごしていました。この時点で講道館は辞めました。
私の家は九段上ですので近かったのですが、家に帰るのが面倒な時は道場に寝泊まりしても誰も何ともいわれませんでした。私もいつの間にか内弟子の一人に加えられていました。植芝盛平翁先生の身の回りの世話を申し出れば内弟子達に大歓迎されました。
次月に続く
上から
写真1:旧本部道場
写真2:1959年頃 江ノ島海岸にて
田村師範、千葉師範、私、毎日新聞の記者
写真3:2008年10月 和歌山県田辺市 第10回合気道世界大会祝賀会にて
田村師範と40年振りの写真です。
by shihan_aikido
| 2009-03-03 10:38