2009年 03月 24日
群馬合気道連盟35周年記念演武会・祝賀会 |
3月15日(日)に、長年に渡り特別な交流のある群馬県合気道連盟の「35周年記念演武会・祝賀会」に出席しました。当日は本部道場での審査の日でしたが欠席して、お祝いに駆けつけました。
群馬県合気道連盟の会長は荒井俊幸師範です。1957年頃本部道場に友人3名と入門されました。私や当時の内弟子達とも直ぐ仲良くなりました。皆20才~25才ぐらい元気で体力が有り血気盛んな時代です。本当に烈しい稽古をしました。荒井師範は東京芸術大学でチェロを専門に勉強している芸術家です。一見武道とは縁の遠い世界に住んでいるように私は思えました。しかし私と同じように大学の授業が無い時にはほとんど本部道場におり合気道漬けの毎日を送っていました。私は明治大学に合気道同好会(現在は体育会合気道部)をつくりました。荒井師範は芸大に合気道同好会(残念ながら荒井師範卒業と共に消滅)を作り、楽器を抱えた芸大の友人達も本部道場に連れてきて、ちょっと場違いな雰囲気を作り出していました。その中の一人の女性が何年か後に現在フランスで活躍されている田村師範と結婚されました。
当時は戦後の合気道の揺籃期です。植芝盛平翁先生や吉祥丸先生が地方や都内の支部道場へ指導に行くときに、お供や受けで付いて行くのは、本部道場でごろごろしている内弟子や大学生の役目でした。
1960年頃になると合気道が新しい武道として週刊誌によく取り上げられる様になりました。それを見て稽古を始める人が急に増えました。また、戦前稽古していた人達が稽古を再開したりして指導者不足です。植芝吉祥丸先生も仕方なく我々を代理指導に派遣しました。
本部道場で稽古しているといっても稽古して2~3年で、二十歳前後の世間知らずの若者です。指導に行った先で若さに任せて烈しい稽古や怪我人をだし、よく植芝吉祥丸先生のもとに苦情の電話や手紙が来ていたのを覚えています。私もそうでしたし、荒井先生も芸術家に似合わずそんな無茶な稽古や指導をした一人です。
当時は武道で生活をするのは夢物語です。荒井師範は学校を卒業と同時に音楽会社に就職され音楽プロジューサーとして活躍されました。駆け出し時代の五木ひろしが荒井師範の靴を揃えた様なエピソードを話されていいました。私は稽古をしていて会社の就職試験を忘れ、1958年にそのまま卒業、仕事に就くことができませんでした。親父が「しばらく好きなことをしていろ」との一言に甘え、当時小遣い程度しかもらえなかった本部道場の指導部員になりました。
その後1969年、小平の自宅に合気道小林道場道場を開設し、生活苦と戦いながら合気道を三多摩に広げる努力をしていました。4年後に荒井師範から突然「私も合気道の道場を高崎で開き広めたいので協力と助言をお願いします。」と連絡がありました。一週間小平道場に住み込んで貰い初心者の指導や指導時間、門下生募集の事などじっくり話し合いました。
合気道山徳道場が開かれたのが丁度35年前です。まだまだ合気道が世間に知られてなく門下生が思うように集まらず苦労されました。お互いに励まし合いながら合気道一筋の道を歩み通しました。1人が3人に成り3人が5人に成って行き、いつの間にかお互いの道場は増えて行きました。この間の家族に掛けた苦労や自分自身に対する色々な葛藤は一言では言い表せません。今だから笑ってはなせますが・・・。
ある程度お互いの道場の組織が固まってからは荒井師範と私は一緒に海外の道場を指導して回る様になりました。回った国は20カ国以上です。1999年5月には合気道小林道場と群馬県合気道連盟と協力し群馬県伊香保で海外15カ国からの参加者を含む800人を集めて世界大会を開くまでになりました。
(写真:真ん中が道場長右から二人目、スーツ姿が荒井師範)
そして今回の群馬合気会創立35周年、第7回群馬県合気道連盟演武大会が前橋市民体育館で行われました。午前中は道主植芝守央先生の2時間の講習会が約200名の参加で開かれ、午後1時からは35有る支部道場の人達の演武で大人350名、子供クラス150名、見学者200名で満員の状態でした。各道場、団体の会員は各自特長有る立派な演武をしていました。海外からも台湾、マレーシアの合気会の協賛演武、荒井師範と普段交流有る道場の師範が演武し、荒井師範、道主植芝守央先生の〆の演武で大会は最高に盛り上がりました。本当に盛大で実の有る大会になったと思います。
今後も40周年、50周年と群馬県合気道連盟のますますの発展を心よりお祈り申し上げます。
by shihan_aikido
| 2009-03-24 10:13