2009年 04月 06日
戦後合気道群雄伝 3 望月稔師範 |

(上の写真:指導中の望月師範)
私が合気道を始めたのは1955年(昭和30年)です。推測ですが日本人でも99、5%の人達は合気道を知らなかったと私は思います。日本以外の国で尚更です。しかし、この時代にフランスやハワイに指導に行かれていた先生方がおられました。

フランスには望月稔師範、阿部正師範そしてハワイに藤平光一師範です。私は本部道場の内弟子をしていましたので、先生方が帰国した折りには指導を受けました。身の回りのお世話もさせていただきましたし、指導の場合には助手として同行したりもしました。それぞれ強烈な個性と信念を持ち、鍛えぬかれた立派な先生方でした。この様な先生だからこそ未知な海外に行き合気道を広める事ができたと実感しました。海外で初めて合気道を広めた苦労話や指導する注意点など、大変参考になる教えを聞くことができました。この貴重な教えは自身が国内、海外での指導の折りにどれほど役に立ったか知れません。
その中の望月稔師範は合気会傘下として活動していませんので、初めて名前を聞かれる方もおられると思います。望月師範は柔道の嘉納治五郎先生の門下生でした。その望月師範が合気道に入門した経緯は、植芝吉祥丸先生の著書「植芝盛平伝」に詳しく出ていますので、少し抜粋してみます。
“昭和5年10月嘉納氏はわざわざ目白台の道場に開祖を訪ねられ、親しくその眼で開祖の気、心、体の神技を一見された。そして「これこそ私が理想としていた武道、すなわち正真正銘の柔道である」とまでいわれたという。・・・氏は帰館後、側近に「実をいえば植芝を講道館に迎えたい。だが植芝はもはや実名備わった一家を成す存在である。それは到底できぬ相談であろう。次善の策として心利いた者を植芝のもとえつかわし、せめてもの道の交流をはかりたい。」との意向を漏らされたと聞く。また事実、数日後、講道館の望月稔、武田二郎を開祖の門へ出向させたのであった。・・・・”

私が明治大学の学生だったとき、本部道場に習いに来ていた明治大学生5人に声を掛けて、合気道部を結成しました。その中の一人である深津昌雄氏が偶然にも望月稔師範の甥でした。その縁で、合気道部の第1回合宿を静岡の養正館で行い望月稔師範の指導を受けることができました。稽古のスタイルは本来柔道家ですので、合気会で稽古してない柔道の捨て身技などがありました。空手みたいな八方拳とか、蹴り技の当て身の稽古も合宿中稽古させられました。私には良い経験になりましたが合気道の稽古を始めたばかりの明大合気道部員は多分全然理解できなかったと思います。
2003年に師範は亡くなられましたが、望月先生のお話しと指導を受ける機会があった事は、とても貴重な経験になりました。
by shihan_aikido
| 2009-04-06 09:53