2009年 12月 24日
忘年会、忘年会 ああ 今日もお酒 |
1969年4月に合気道小林道場を道場開いた時、私は一切お酒が飲めませんでした。父が酒を一切飲まない人でしたので、お酒の味は知らずに育ちました。大学に入学と同時に本部道場に入門しました。本部道場の内弟子時代に先輩からいきなり酒の一気飲みを強制され、こんな「不味い物が飲めるか」と思いました。

(小林道場第一回忘年会 こたつを囲んで)
その後先輩からどんなに酒を強要されても一切飲みませんでした。昔は「お流れ頂戴」とか言って先輩や上役の杯をもらいに行ったり、逆に「俺の注いだ酒が飲めないのか!」と強要されたりしました。世間一般もそうでしたが、特に50年以上前の武道の世界です。先輩の命令に従わない事はどんな制裁が待っているか判りません。先輩にいきなりぶん殴られたり、皆で抑えつけられ口に一升瓶から酒を注ぎこまれた事もありました。私は変な頑固さがあります。思い込んだら変えない意志の強さがあります。先輩達のどんな酒の上のいじめも耐え抜きました。「小林、やつに酒は飲ませられない」とあきらめさせたのです。その為、合気道小林道場を開いた時にはお酒は一切飲めなせんでした。

(コップ一杯のビールでダウン)
自分で道場を開いて見ますと道場には不思議と酒が集まるのです。道場に挨拶に来る人達は、必ず酒の1~2本をお土産に持参してくるのが礼儀でした。飲んでも飲んでも道場の押し入れには常に一斗(一升瓶10本)はあります。それを目当てに大学合気道部の学生達が稽古という名目で集まってきます。夜通し飲み明かすのもしばしばでした。朝稽古の時など2日酔いの学生が更衣室でダウンしていた事などしょっちゅうありました。
(仲人の写真)
一般会員も日曜日などは稽古が終わっても帰らず、いつの間にか飲み会になります。若かりし頃の、東大和市合気会の沢田朗師範、調和会の谷村進一師範、小平・府中道場の石村国興師範、佐々木考蔵三段、上野耕三段、そして大学合気道部員が中心で、事あることに宴会をしていました。コップ一杯のビールでダウンしている私を横目で見て、代わりに女神様が「心が休まる」といいながら、みんなに付き合って飲んでいました。当時乳飲み子の弘明はタバコの煙と宴会の中で育った様なものです。

(酒を注ぐにも握力の鍛錬)
私もコップ一杯のビールで顔が真っ赤になるのは今でも変わりませんが、沢田氏を中心とした会員のお酒の指導で、少しずつ酒の飲む量が有級者、そして初段と上がっていきました。弘明現副道場長も中学生になると「二代目一杯飲め」と盛んに飲まされていました。内弟子も増えると共に道場の数も増え、海外からの研修生も多く来日するようになりました。飲む機会は増えるばかりです。若い人達が多いので道場の行事の他に結婚式も数多く出席しました。なにせ今までに仲人を44回もしています。
この20年近くは忘年会シーズンが特に大変です。小平、所沢は必ず出席しなければなりません。数ある道場で「先生、合気道小林道場の傘下ですので年1回ぐらい忘年会を兼ねて指導に来て下さい」と言われると断れません。一番多い時期で11月末から12月25日までに20回は有った年が何年も続きました。
60歳を過ぎて忘年会を減らして行きましたが、今年の忘年会は10回です。今年73歳、さすがこの年になると金、土そして日曜日と忘年会が続くと、月曜日は一日寝ていました。段々無理はできなくなっています。それでも私の酒の飲む量は上がっているように感じます。人間一生に飲む酒の量は生まれたときから決まっているのではないかと私は考えます。私は学生時代から35歳迄酒は殆ど飲みませんでした。その分現在の年齢になっても飲めるのだと思います。

(ジャンケンで支払う人を決める時もあります。)
忘年会が終わりましたが年末年始に掛けてこれからも越年稽古、正月、本部賀詞交換会、合気道小林道場の新年会、そして東村山道場10周年祝賀新年会とお酒と付き合う日々が続きます。元気で酒が飲めるのも普段から稽古を続け会員の皆さんと受け身を一緒に取っていて健康で元気だからです。皆さんお酒は楽しく、身体に良い飲み方をしましょう。そして元気、元気、元気で来年も張り切って行きましょう。

(小林道場第一回忘年会 こたつを囲んで)
その後先輩からどんなに酒を強要されても一切飲みませんでした。昔は「お流れ頂戴」とか言って先輩や上役の杯をもらいに行ったり、逆に「俺の注いだ酒が飲めないのか!」と強要されたりしました。世間一般もそうでしたが、特に50年以上前の武道の世界です。先輩の命令に従わない事はどんな制裁が待っているか判りません。先輩にいきなりぶん殴られたり、皆で抑えつけられ口に一升瓶から酒を注ぎこまれた事もありました。私は変な頑固さがあります。思い込んだら変えない意志の強さがあります。先輩達のどんな酒の上のいじめも耐え抜きました。「小林、やつに酒は飲ませられない」とあきらめさせたのです。その為、合気道小林道場を開いた時にはお酒は一切飲めなせんでした。

(コップ一杯のビールでダウン)
自分で道場を開いて見ますと道場には不思議と酒が集まるのです。道場に挨拶に来る人達は、必ず酒の1~2本をお土産に持参してくるのが礼儀でした。飲んでも飲んでも道場の押し入れには常に一斗(一升瓶10本)はあります。それを目当てに大学合気道部の学生達が稽古という名目で集まってきます。夜通し飲み明かすのもしばしばでした。朝稽古の時など2日酔いの学生が更衣室でダウンしていた事などしょっちゅうありました。

一般会員も日曜日などは稽古が終わっても帰らず、いつの間にか飲み会になります。若かりし頃の、東大和市合気会の沢田朗師範、調和会の谷村進一師範、小平・府中道場の石村国興師範、佐々木考蔵三段、上野耕三段、そして大学合気道部員が中心で、事あることに宴会をしていました。コップ一杯のビールでダウンしている私を横目で見て、代わりに女神様が「心が休まる」といいながら、みんなに付き合って飲んでいました。当時乳飲み子の弘明はタバコの煙と宴会の中で育った様なものです。

(酒を注ぐにも握力の鍛錬)
私もコップ一杯のビールで顔が真っ赤になるのは今でも変わりませんが、沢田氏を中心とした会員のお酒の指導で、少しずつ酒の飲む量が有級者、そして初段と上がっていきました。弘明現副道場長も中学生になると「二代目一杯飲め」と盛んに飲まされていました。内弟子も増えると共に道場の数も増え、海外からの研修生も多く来日するようになりました。飲む機会は増えるばかりです。若い人達が多いので道場の行事の他に結婚式も数多く出席しました。なにせ今までに仲人を44回もしています。
この20年近くは忘年会シーズンが特に大変です。小平、所沢は必ず出席しなければなりません。数ある道場で「先生、合気道小林道場の傘下ですので年1回ぐらい忘年会を兼ねて指導に来て下さい」と言われると断れません。一番多い時期で11月末から12月25日までに20回は有った年が何年も続きました。
60歳を過ぎて忘年会を減らして行きましたが、今年の忘年会は10回です。今年73歳、さすがこの年になると金、土そして日曜日と忘年会が続くと、月曜日は一日寝ていました。段々無理はできなくなっています。それでも私の酒の飲む量は上がっているように感じます。人間一生に飲む酒の量は生まれたときから決まっているのではないかと私は考えます。私は学生時代から35歳迄酒は殆ど飲みませんでした。その分現在の年齢になっても飲めるのだと思います。

(ジャンケンで支払う人を決める時もあります。)
忘年会が終わりましたが年末年始に掛けてこれからも越年稽古、正月、本部賀詞交換会、合気道小林道場の新年会、そして東村山道場10周年祝賀新年会とお酒と付き合う日々が続きます。元気で酒が飲めるのも普段から稽古を続け会員の皆さんと受け身を一緒に取っていて健康で元気だからです。皆さんお酒は楽しく、身体に良い飲み方をしましょう。そして元気、元気、元気で来年も張り切って行きましょう。
by shihan_aikido
| 2009-12-24 09:58