
4月1日から行われたフィンランド合気会40周年記念講習会と演武会にノルウェーの首都オスロにあるスンヤタ道場からモリコ氏が弟子7名を連れて参加してくれました。彼はオスロに広くて立派な道場を持っております。その道場の正面に私が書いた合気道という掛け軸が欲しいと連絡が有り渡しました。私は全紙に合気道と書いて持って行き彼に贈呈しました。帰国後、彼からメールが有り稽古に来た生徒達と掛け軸を掛けるための儀式をしたと左記の写真を送ってくれました。
話はさかのぼりますが、1977年8月にフィンランド合気会が首都ヘルシンキで私を招き、フィンランドで始めての本格的な演武会を開催しました。その時にスウェーデンのストックホルム道場から参加してくれて、私の受けを取った生徒の一人がモリコ氏です。彼は元々スウェーデン人で、スウェーデン陸軍の特殊部隊に所属していました。非常に気性が激しく、我慢強く運動能力が抜群でした。軍隊時代に格闘技の高度な訓練を受けており、いつからか合気道に興味を持ち、熱心に稽古を続けてきました。
この時の演武会で、彼の受け身が多少普段と違っていましたので、演武後私が「今日の受け身は普段と違う」と注意したところ、彼は「先生、私は今小指を骨折していて、何時ものように身体が動かず申し訳有りませんでした。」と謝りました。「今日どうしても先生の受け身を取らせて頂きたくて、黙っていました。」と話してくれました。当時私も若くて動きも速く技も力強く行いましたのでよほど痛かったと思います。平然と受けを取っていましたので他の人は気付かなかった様です。私も彼の根性には本当に感心しました。小林道場のトレードマークになっている私の演武はその時の写真をデザインしたものです。

その後しばらくして、3年以上合気道の稽古に来なくなりました。この間かれはインドに滞在し何か修業していたみたいです。ストックホルムの道場に現れた時にはオレンジ色の道着にオレンジの袴で稽古しようとしました。当時ストックホルムの道場で指導していた市村俊行師範が激怒して、私にモリコ氏を破門するとの手紙をよこしました。私が仲裁する形になり破門だけは取りやめてもらいました。色々問い合わせて判った事は何処でどう知り合ったのか分かりませんがノーベル平和賞を受賞したチベットの「ダライ・ラマ氏」のボデーガードを3年間していたそうです。本当に大変な男です。何を考えているか分からない所が有りますが・・・。また双子の兄弟のオーベ氏は合気道小林道場の海外からの内弟子第1号でした。合気道小林道場の海外からの内弟子受け入れの為の良い例をつくってくれました。双子の兄弟とも合気道小林道場と深い関係に有ります。

モリコ氏はスウェーデンス、トックホルムで道場を持ちましたが向こう気が強い性格は治らず、日本から来た剣道家と木刀で試合したとか、相変わらず色々問題を起こしてくれます。その度に私が市村師範や他の合気道の会員とのなかを取り持って、何とか合気道を続けられるようにしました。気性は激しいのですが不思議と私に対しては体育会合気道部の下級生のように従順です。

その後ストックホルムの道場では彼の性格から思うように合気道の弟子が集まらずノルウェーのオスロに移り住み合気道の道場を開きました。暫くは合気道だけでは生活できず、何処で憶えたか知りませんが指圧治療をしたりして生計をたてていました。ストックホルムの弥栄道場の私の講習会には車で5,6時間掛けて必ず参加してくれます。私も何度かオスロの彼の道場に呼ばれて講習会を開いています。私が始めて行った1985年頃当時のノルウェーはスウェーデンよりも本当に貧しい国でした。現在ではノルウェーは石油が産出されますので北欧5カ国では一番景気が良い国です。合気道小林道場の40周年記念行事に参加したモリコ氏以下ノルウェー人達はJRの鉄道乗車券は全員グリーン車でした。他の国から参加した人達は皆羨ましがっていました。
この3年間、私はモリコ氏の道場には行っていません。現在では副道場長が年1回行っています。副道場長の話ではモリコ氏の道場はとても立派で、80畳ぐらいの道場2つと120畳の道場が一つあり、武道センターとして合気道のみならず、空手、テッコンドウ、剣術、さらにヨガなどに道場を貸しています。事務所も併設されていて、ナショナルオリンピック委員会の事務所も入っています。
彼の道場からこの数年、何人もの内弟子希望者を合気道小林道場に送り込んで来ています。是非会員の皆さん交流して下さい。

(道場の外観)