2010年 06月 16日
第48回 全日本合気道演武大会 その1 |
5月22日 第48回全日本合気道演武大会が東京九段の武道館で行われました。本部道場から3月中頃にお知らせが来ます。昔の記憶は定かではありませんが、私の記憶が間違いでなければ私は毎回連続出場しています。私の演武時の受けは自薦、他薦で選ばれた人を指導部で話し合って決めます。
受けが決まると、名前を本部道場のプログラム係に申請します。今回受けを取ってくれた松本春美さんと西井琢磨君は正確に書かれていましたが、堀江泰啓さんの名前が間違っていました。小林道場では正確に申請しましたがこれはあくまで本部道場のミスです。以前参加した人の名前が変更されなかったのです。堀江さんには思い出のプログラムとならず謝らなければなりません。
全日本合気道演武大会は今年第48回を数えました。それ以前にも演武大会は行われていました。昭和30年(1955年)の旧本部道場で行われた演武会から参加し続けている私にとっては、振り返って見ると大会が大きくなればなるほど本部道場も色々方法を考えて対処しています。
昭和35年5月に合気会として初めて、日本各地から本格的に師範、会員を招集して行われた第1回の演武大会は新宿の山野ホールで行われました。地方の道場を含めて稽古に来ている人達主体の演武会は初めてですので私達内弟子たちも燃えに燃えて下記の様な事をしでかしました。
(写真:藤平先生の受けを取る若き日の道場長)
当時の演武の事を藤平光一師範が「中村天風と植芝盛平 気の確立」という本の170ページに下記のように書かれています。
「小林保雄君とか黒岩洋志雄君といった当時の若い弟子たちが、私をつぶそうとしたことがある。それは山野ホールという会場でのことだ。田村君(現フランスで指導)が、今日は受けを何人用意しましょうか、と聞いてきたので何人でもいいよ、と答えたら、彼は何と十人もつれてきた。山野ホールは狭いので、「なんだ、全員かかってくるのか」と言うと、「ハイ、そうです」と言う。
今さらしかたがないので、演武を開始して、最後に多人数掛け(一度に何人も相手にすること)を始めた。何しろ狭いので、どこへ行っても、5,6人いる。行く場所がない。とにかく投げ続けていると、最後にそのうちの一人が、「取った!」と叫んだ。まるで捕り物だ。私を仰向けにひっくり返して、押さえつけ、全員が覆い被さってきた。みんな私がつぶされたと思ったようだ。
しかし、彼等が山になっているときに私は、ステージのマイクに向かって、「今日は長い間、ありがとうございました」としゃべっていた。「取った!」の時には、私はもう抜けていたのだ。彼らも急には起きあがれない。彼らが山になっているそばに、田村君は一人、立っている。自分は悠々としていたのだ。私は、田村君の襟首を捕まえて、「横着するな」と山の上に放り投げた・・・・」
(写真:昭和31年頃の本部道場での演武会)
当時は本部道場に10名位は内弟子として住み込み、大学に通ったり、勤めに行ったりしていました。私達内弟子も20~25才前後、世間知らずと若気の至りで結構先輩に刃向かったりした時がありました。藤平光一師範は昭和29年にアメリカ、ハワイに合気道を始めて普及した先駆者です。毎年半年はハワイ、アメリカ本土で指導していました。現在我々が行っている合気体操、入身、転換、回転、一教運動、四方運動等は藤平師範がアメリカ人に指導する為分かり易く、集団でもできるように考え出されたのです。
藤平師範はアメリカ本土の柔道大会に合気道の紹介の為に行ったところ、司会が合気道は多人数掛けが有るということで会場に呼び出されたそうです。そして、1位から4位までの選手を一斉に藤平師範に掛からせました。その時に藤平師範は全員を投げ、一躍合気道を有名にした方です。
我々内弟子としては日常生活や酒を飲んだときなど藤平師範の話は面白く、全部お金を払ってくれますので良い先生です。当時1ドル360円の時代です。アメリカで稼いでくるので本当にリッチでした。しかし稽古の時は藤平師範の指導通りの技、体捌きをしないと厳しく怒られます。私達内弟子達はその事で一時強く反発し皆の前で恥をかかせようと機会をねらっていたのです。
「取った」と言ったのは故黒岩先輩で、藤平師範の後から組み付き引き倒しました。私もその上に飛びかかったのですが藤平光一師範の実力には歯が立たなかったです。本当に強い先生でした。その後私は内弟子として藤平師範の担当となり10年位藤平師範のカバン持ちをし、お供で各道場を回り、教えを受けました。残念ですが昭和47年(1974年)3月31日に「気の研究会」という新しい団体をつくり合気会から独立されました。合気道は植芝盛平翁先生が創始した道統を守るという考えから私は合気会に残りました。しかし長年藤平師範の教えを受けその技、教えを私なりに消化してきました。その教えは心と身体に現在でもしみついて付いています。
(つづく)
受けが決まると、名前を本部道場のプログラム係に申請します。今回受けを取ってくれた松本春美さんと西井琢磨君は正確に書かれていましたが、堀江泰啓さんの名前が間違っていました。小林道場では正確に申請しましたがこれはあくまで本部道場のミスです。以前参加した人の名前が変更されなかったのです。堀江さんには思い出のプログラムとならず謝らなければなりません。
全日本合気道演武大会は今年第48回を数えました。それ以前にも演武大会は行われていました。昭和30年(1955年)の旧本部道場で行われた演武会から参加し続けている私にとっては、振り返って見ると大会が大きくなればなるほど本部道場も色々方法を考えて対処しています。
昭和35年5月に合気会として初めて、日本各地から本格的に師範、会員を招集して行われた第1回の演武大会は新宿の山野ホールで行われました。地方の道場を含めて稽古に来ている人達主体の演武会は初めてですので私達内弟子たちも燃えに燃えて下記の様な事をしでかしました。
(写真:藤平先生の受けを取る若き日の道場長)
当時の演武の事を藤平光一師範が「中村天風と植芝盛平 気の確立」という本の170ページに下記のように書かれています。
「小林保雄君とか黒岩洋志雄君といった当時の若い弟子たちが、私をつぶそうとしたことがある。それは山野ホールという会場でのことだ。田村君(現フランスで指導)が、今日は受けを何人用意しましょうか、と聞いてきたので何人でもいいよ、と答えたら、彼は何と十人もつれてきた。山野ホールは狭いので、「なんだ、全員かかってくるのか」と言うと、「ハイ、そうです」と言う。
今さらしかたがないので、演武を開始して、最後に多人数掛け(一度に何人も相手にすること)を始めた。何しろ狭いので、どこへ行っても、5,6人いる。行く場所がない。とにかく投げ続けていると、最後にそのうちの一人が、「取った!」と叫んだ。まるで捕り物だ。私を仰向けにひっくり返して、押さえつけ、全員が覆い被さってきた。みんな私がつぶされたと思ったようだ。
しかし、彼等が山になっているときに私は、ステージのマイクに向かって、「今日は長い間、ありがとうございました」としゃべっていた。「取った!」の時には、私はもう抜けていたのだ。彼らも急には起きあがれない。彼らが山になっているそばに、田村君は一人、立っている。自分は悠々としていたのだ。私は、田村君の襟首を捕まえて、「横着するな」と山の上に放り投げた・・・・」
(写真:昭和31年頃の本部道場での演武会)
当時は本部道場に10名位は内弟子として住み込み、大学に通ったり、勤めに行ったりしていました。私達内弟子も20~25才前後、世間知らずと若気の至りで結構先輩に刃向かったりした時がありました。藤平光一師範は昭和29年にアメリカ、ハワイに合気道を始めて普及した先駆者です。毎年半年はハワイ、アメリカ本土で指導していました。現在我々が行っている合気体操、入身、転換、回転、一教運動、四方運動等は藤平師範がアメリカ人に指導する為分かり易く、集団でもできるように考え出されたのです。
藤平師範はアメリカ本土の柔道大会に合気道の紹介の為に行ったところ、司会が合気道は多人数掛けが有るということで会場に呼び出されたそうです。そして、1位から4位までの選手を一斉に藤平師範に掛からせました。その時に藤平師範は全員を投げ、一躍合気道を有名にした方です。
我々内弟子としては日常生活や酒を飲んだときなど藤平師範の話は面白く、全部お金を払ってくれますので良い先生です。当時1ドル360円の時代です。アメリカで稼いでくるので本当にリッチでした。しかし稽古の時は藤平師範の指導通りの技、体捌きをしないと厳しく怒られます。私達内弟子達はその事で一時強く反発し皆の前で恥をかかせようと機会をねらっていたのです。
「取った」と言ったのは故黒岩先輩で、藤平師範の後から組み付き引き倒しました。私もその上に飛びかかったのですが藤平光一師範の実力には歯が立たなかったです。本当に強い先生でした。その後私は内弟子として藤平師範の担当となり10年位藤平師範のカバン持ちをし、お供で各道場を回り、教えを受けました。残念ですが昭和47年(1974年)3月31日に「気の研究会」という新しい団体をつくり合気会から独立されました。合気道は植芝盛平翁先生が創始した道統を守るという考えから私は合気会に残りました。しかし長年藤平師範の教えを受けその技、教えを私なりに消化してきました。その教えは心と身体に現在でもしみついて付いています。
(つづく)
by shihan_aikido
| 2010-06-16 11:17