2010年 07月 20日
福島武道館 35周年記念講習会 |
6月19日に福島武道館35周年記念講習会と祝賀会に講師として招待されて行って来ました。福島武道館の追分拓也館長は明治大学体育会合気道部44年度卒のOBです。その追分拓也師範に福島駅に出迎えてもらい、追分師範の会社「楽酒 追分」本店にいきました。明るい近代的な店舗には全国の主要な日本酒やワインが並び、店の左半分はしゃれたカフェになっています。奥さんも店に居られ接客していました。奥さんは追分氏と結婚後子供が生まれてから単身フランスに留学され、日本人女性として初めてワインのソムリエになられた方です。強い意志と先見性と美人で素晴らしい才能のある方です。業界では追分氏より有名人で、ソムリエ追分富子さんのご主人ですと紹介されると嘆いているのを私は追分氏から何度も聞いています。
私が店に入った時にその奥さんが「先生お久振りです。私達結婚して35年になります。」と挨拶されました。奥さんの「私達結婚して35年になります」の一言がこのブログを書くヒントになりました。
追分師範の本業である「株式会社 追分」は東北では有名な酒屋です。合気道はいわゆる「道楽」です。私の推測では追分氏にとって合気道が仕事の活力の元で、且つ彼の生き甲斐になっているとおもいます。彼が福島武道館を開いて35年になりますが、その間色々な事が有りました。会社倒産の危機や本人が脳溢血で入院し手足に障害も残りました。しかし私が感心したのは彼の口から合気道や道場を止めると云う言葉は一言も聞いたことはありませんでした。強力な意志とリハビリにより現在殆ど障害無く回復しており、平常通り稽古と指導を続けています。
追分拓也氏は昭和41年度(1966年)に明治大の合気道部に入部してきました。仙台で神武錬成塾の白川勝敏師範、ブラジルで指導している鹿内一民師範そして調布合気会で稽古している荒井清師範などが同期です。大学合気道部は数多くありますが、同期で6段以上の師範が4人も出たのは他の大学でも皆無だと思います。同期の尾島育四郎OBは助監督として後輩の面倒を見てくれています。本当に合気道の好きな仲間が揃った年度です。
追分師範が1年生の夏、北海道岩見沢の自衛隊で合宿を行いました。当時自衛隊はPRの為に大学の運動部に食事付きで施設を貸してくれた時代が有り、食事は幹部待遇で宿泊施設と道場も整っていてその上安い費用で貸してくれましたので、大いに利用させてもらいました。合宿後、部員達は各自観光や食べ歩きと自由行動に移りました。私は4年生の秦恭則氏と観光バスに乗りました。そうしたら、一番後の一段高い席に座って大声で話している人の声が耳に入ってきました。「俺は明治大学合気道部4年の幹部だ。お前は慶応大学の空手部の3年生か、慶応大学にも合気道部が有るが、東京に帰ったら明大合気道部の俺の強さを見せてやるよ」などと大声で話しているのが聞こえてきました。振り返って見てみたら追分1年部員でした。
追分氏は今でも「俺は躁鬱病だが鬱(ロー状態)の無い躁(ハイ状態)だけの躁鬱病だ」と自分から言っています。入部当時から声も大きく話も嘘だか本当だか分から無い様な大きい事を滔々とまくし立てます。追分氏の話は1/3として聞けと言う部員間の話は本当だと私も知り、4年部員と顔を見合わせて苦笑をしました。
追分氏が合気道部の幹部時代は武道気違いになりました。時間の総てを武道につぎ込んでいました。合気道は勿論空手、居合、杖道等学んでいました。勉強の成績は・・・・想像してください。
下級生の面倒見のよい追分幹部は下宿に下級生を呼んで良く酒も飲ませた様です。ある時酔った1年生が下宿の外に出て、選挙中の候補者のポスターを破いてしまったのです。目撃者の通報でパトカーに囲まれ全員逮捕です。追分幹部は逮捕寸前に下級生全員に部員証飲み込ませました。次の日の読売新聞全国版には「明大生選挙ポスターを破る」と20歳を過ぎている学生は顔写真入りで報道されてしまいました。しかし追分氏のとっさの判断で、明大合気道部の名は出なかったので合気道部はお咎めなしでした。出ていれば現在の明大合気道部は無かったかも知れません。
また、追分氏が幹部の時に合気道同好会から体育会合気道部に昇格の承認が明大体育会から出されました。私達創部に努力した人達は合気道部を大学に申請した時点から同好会から体育会に昇格する事を目標として行動してきました。それが創部10年目で明治大学体育会合気道部として承認されたのです。
数々の思い出をつくってくれた追分氏も卒業後は暫く連絡が有りませんでした。年賀状やOB会などでたまに会うと、合気道の道場が無いので空手をしているなどと言っていました。
35年前の事です。明大合気道部の1月に行われる早朝の寒稽古が終わり8時頃から明大前駅の喫茶店で私と幹部学生が食事をしている所に、追分OBが「先生、新婚旅行で東京にきました。学生時代が懐かしくて思い出多い明大前駅に来ました」と現れました。新婚の奥さんを一緒に連れてきたかは35年も前ですので私には記憶有りません・・・・。
私は彼の酒屋の2階が麻雀屋になっているとの話を聞き言いました。「追分よ、麻雀屋は教育に良くない。そこを合気道の道場にしたらどうだ?丁度所沢道場に余っている畳が50枚有るので一枚1000円で持っていって良いよ」と提案しました。所沢道場の予備の畳50枚は全然知らない畳屋が「拓殖大付属校の道場に納めに行ったが突然キャンセルに成った。合気道小林道場にて破格の一枚1000円で良いから引き取ってくれないか?」と言うのを買い取り所沢道場に置いておいたのです。 追分OBはその場では「監督、そんなことは出来ないと思うが一応考えてみます。」と言って私と別れました。
縁と言うものは突然つながるものです。追分OBから半年後突然電話が私に掛かってきました。「監督、道場を始める事にしました。畳は18枚で取りにいきます。」「お前の話は嘘だか、本当だか信用出来ない」と言いますと「この話は本当です、信用して下さい。道場の名前を監督つけて下さい。」「福島に武道館は有るのか?」「有りません」「福島武道館にしろ、名前は速いもの勝ちさ」そして彼の道場は福島武道館と名付けられ私がお祝いとして看板を書きました。
福島武道館の道場開きには私も行きました。間口4間の昔ながらの酒屋さんで、野菜やお菓子まで販売していました。店の左の階段を上がると18畳の道場です。道場開きは彼の顔の広さで沢山人が集まり盛大でした。1年もすると追分師範から「監督、18畳の道場で子供達が30名も集まりどうしようも有りません。子供達が立っているだけで一杯です。大人も集まってします」と電話が有りました。
5年後ぐらいに酒屋の店を建て替えるので、新しい場所に50畳の道場を創りますと連絡が入りました。道場開きに行ってみると1階は館長室と駐車場で2階に50畳の立派な道場です。東北地方では個人の私財を投入して建てた合気道の道場としては一番立派で早い時期の道場ではなかったかと思います。子供達は日曜日、大人は週3回稽古します。元旦の稽古では子供も大人も裸足で2キロの神社まで走るのを恒例にしています。
今では多少稽古は柔らかくなったと思いますが、自分を鍛える稽古中心ですのでかなり厳しく、烈しい稽古をしていました。10年、20年、30年と行事が有るたびに参加させて頂きました。合気道に対する情熱は少しも衰える事なく続いています。そして福島で合気道を稽古する人も確実に増え続けています。現在は福島県合気道を統括する福島県合気道連盟の支部長もしています。
今度の福島武道館35周年の講習会は飯坂学習センターで行われ、福島県全支部、秋田、青森、山形、宮城等親しく交流の有る道場からの参加を加えて男女150名が参加しました。私が指導しましたが、細かい技の説明はせず、口より身体を動かせと全員大汗をかきながら稽古をしました。勿論稽古の参考になる点は何気なく指摘しながらですので、楽しい稽古が出来たと思います。自己満足かな?
祝賀会はサンパレス福島で80名を集めて行われました。この宴会も大いに盛り上がりました。
冒頭で追分師範の奥さんが私に言った一言「私達結婚して35年になります。」の意味が分かったと思います。結婚した年数と道場開設の年数と一緒なのです。田舎の酒屋に嫁いできて先見の明を持ってワインの良さを見抜き、フランスに留学までして日本初の女性ソムリエとして活躍されています。私はワインの事は分かりませんが奥さんに一番感謝をしなければならないのは、追分氏が道場を持ち合気道を続けることに理解され許されたことだと思います。
福島武道館35周年本当におめでとう御座います。「株式会社 追分」もこの不景気を乗り越えて発展しますように。
合気道小林道場の新年会のお酒は「株式会社 追分」から購入して出席者の皆さんに飲んで貰っています。
私が店に入った時にその奥さんが「先生お久振りです。私達結婚して35年になります。」と挨拶されました。奥さんの「私達結婚して35年になります」の一言がこのブログを書くヒントになりました。
追分師範の本業である「株式会社 追分」は東北では有名な酒屋です。合気道はいわゆる「道楽」です。私の推測では追分氏にとって合気道が仕事の活力の元で、且つ彼の生き甲斐になっているとおもいます。彼が福島武道館を開いて35年になりますが、その間色々な事が有りました。会社倒産の危機や本人が脳溢血で入院し手足に障害も残りました。しかし私が感心したのは彼の口から合気道や道場を止めると云う言葉は一言も聞いたことはありませんでした。強力な意志とリハビリにより現在殆ど障害無く回復しており、平常通り稽古と指導を続けています。
追分拓也氏は昭和41年度(1966年)に明治大の合気道部に入部してきました。仙台で神武錬成塾の白川勝敏師範、ブラジルで指導している鹿内一民師範そして調布合気会で稽古している荒井清師範などが同期です。大学合気道部は数多くありますが、同期で6段以上の師範が4人も出たのは他の大学でも皆無だと思います。同期の尾島育四郎OBは助監督として後輩の面倒を見てくれています。本当に合気道の好きな仲間が揃った年度です。
追分師範が1年生の夏、北海道岩見沢の自衛隊で合宿を行いました。当時自衛隊はPRの為に大学の運動部に食事付きで施設を貸してくれた時代が有り、食事は幹部待遇で宿泊施設と道場も整っていてその上安い費用で貸してくれましたので、大いに利用させてもらいました。合宿後、部員達は各自観光や食べ歩きと自由行動に移りました。私は4年生の秦恭則氏と観光バスに乗りました。そうしたら、一番後の一段高い席に座って大声で話している人の声が耳に入ってきました。「俺は明治大学合気道部4年の幹部だ。お前は慶応大学の空手部の3年生か、慶応大学にも合気道部が有るが、東京に帰ったら明大合気道部の俺の強さを見せてやるよ」などと大声で話しているのが聞こえてきました。振り返って見てみたら追分1年部員でした。
追分氏は今でも「俺は躁鬱病だが鬱(ロー状態)の無い躁(ハイ状態)だけの躁鬱病だ」と自分から言っています。入部当時から声も大きく話も嘘だか本当だか分から無い様な大きい事を滔々とまくし立てます。追分氏の話は1/3として聞けと言う部員間の話は本当だと私も知り、4年部員と顔を見合わせて苦笑をしました。
追分氏が合気道部の幹部時代は武道気違いになりました。時間の総てを武道につぎ込んでいました。合気道は勿論空手、居合、杖道等学んでいました。勉強の成績は・・・・想像してください。
下級生の面倒見のよい追分幹部は下宿に下級生を呼んで良く酒も飲ませた様です。ある時酔った1年生が下宿の外に出て、選挙中の候補者のポスターを破いてしまったのです。目撃者の通報でパトカーに囲まれ全員逮捕です。追分幹部は逮捕寸前に下級生全員に部員証飲み込ませました。次の日の読売新聞全国版には「明大生選挙ポスターを破る」と20歳を過ぎている学生は顔写真入りで報道されてしまいました。しかし追分氏のとっさの判断で、明大合気道部の名は出なかったので合気道部はお咎めなしでした。出ていれば現在の明大合気道部は無かったかも知れません。
また、追分氏が幹部の時に合気道同好会から体育会合気道部に昇格の承認が明大体育会から出されました。私達創部に努力した人達は合気道部を大学に申請した時点から同好会から体育会に昇格する事を目標として行動してきました。それが創部10年目で明治大学体育会合気道部として承認されたのです。
数々の思い出をつくってくれた追分氏も卒業後は暫く連絡が有りませんでした。年賀状やOB会などでたまに会うと、合気道の道場が無いので空手をしているなどと言っていました。
35年前の事です。明大合気道部の1月に行われる早朝の寒稽古が終わり8時頃から明大前駅の喫茶店で私と幹部学生が食事をしている所に、追分OBが「先生、新婚旅行で東京にきました。学生時代が懐かしくて思い出多い明大前駅に来ました」と現れました。新婚の奥さんを一緒に連れてきたかは35年も前ですので私には記憶有りません・・・・。
私は彼の酒屋の2階が麻雀屋になっているとの話を聞き言いました。「追分よ、麻雀屋は教育に良くない。そこを合気道の道場にしたらどうだ?丁度所沢道場に余っている畳が50枚有るので一枚1000円で持っていって良いよ」と提案しました。所沢道場の予備の畳50枚は全然知らない畳屋が「拓殖大付属校の道場に納めに行ったが突然キャンセルに成った。合気道小林道場にて破格の一枚1000円で良いから引き取ってくれないか?」と言うのを買い取り所沢道場に置いておいたのです。 追分OBはその場では「監督、そんなことは出来ないと思うが一応考えてみます。」と言って私と別れました。
縁と言うものは突然つながるものです。追分OBから半年後突然電話が私に掛かってきました。「監督、道場を始める事にしました。畳は18枚で取りにいきます。」「お前の話は嘘だか、本当だか信用出来ない」と言いますと「この話は本当です、信用して下さい。道場の名前を監督つけて下さい。」「福島に武道館は有るのか?」「有りません」「福島武道館にしろ、名前は速いもの勝ちさ」そして彼の道場は福島武道館と名付けられ私がお祝いとして看板を書きました。
福島武道館の道場開きには私も行きました。間口4間の昔ながらの酒屋さんで、野菜やお菓子まで販売していました。店の左の階段を上がると18畳の道場です。道場開きは彼の顔の広さで沢山人が集まり盛大でした。1年もすると追分師範から「監督、18畳の道場で子供達が30名も集まりどうしようも有りません。子供達が立っているだけで一杯です。大人も集まってします」と電話が有りました。
5年後ぐらいに酒屋の店を建て替えるので、新しい場所に50畳の道場を創りますと連絡が入りました。道場開きに行ってみると1階は館長室と駐車場で2階に50畳の立派な道場です。東北地方では個人の私財を投入して建てた合気道の道場としては一番立派で早い時期の道場ではなかったかと思います。子供達は日曜日、大人は週3回稽古します。元旦の稽古では子供も大人も裸足で2キロの神社まで走るのを恒例にしています。
今では多少稽古は柔らかくなったと思いますが、自分を鍛える稽古中心ですのでかなり厳しく、烈しい稽古をしていました。10年、20年、30年と行事が有るたびに参加させて頂きました。合気道に対する情熱は少しも衰える事なく続いています。そして福島で合気道を稽古する人も確実に増え続けています。現在は福島県合気道を統括する福島県合気道連盟の支部長もしています。
今度の福島武道館35周年の講習会は飯坂学習センターで行われ、福島県全支部、秋田、青森、山形、宮城等親しく交流の有る道場からの参加を加えて男女150名が参加しました。私が指導しましたが、細かい技の説明はせず、口より身体を動かせと全員大汗をかきながら稽古をしました。勿論稽古の参考になる点は何気なく指摘しながらですので、楽しい稽古が出来たと思います。自己満足かな?
祝賀会はサンパレス福島で80名を集めて行われました。この宴会も大いに盛り上がりました。
冒頭で追分師範の奥さんが私に言った一言「私達結婚して35年になります。」の意味が分かったと思います。結婚した年数と道場開設の年数と一緒なのです。田舎の酒屋に嫁いできて先見の明を持ってワインの良さを見抜き、フランスに留学までして日本初の女性ソムリエとして活躍されています。私はワインの事は分かりませんが奥さんに一番感謝をしなければならないのは、追分氏が道場を持ち合気道を続けることに理解され許されたことだと思います。
福島武道館35周年本当におめでとう御座います。「株式会社 追分」もこの不景気を乗り越えて発展しますように。
合気道小林道場の新年会のお酒は「株式会社 追分」から購入して出席者の皆さんに飲んで貰っています。
by shihan_aikido
| 2010-07-20 18:01