2011年 07月 14日
閲覧50万回突破 |
合気道小林道場のホームペイジが作成されたのは10年以上前になります。2011年7月の段階で閲覧数が502,000になりました。大勢の方から「先生のブログ読んでいます。色々と面白い文章や興味を引く話題も有ります。先生自身で文章を書かれパソコンに打ち込むのですか?」と良く質問されます。
答えは「勿論」です。文章を打つ為にブラインドタッチも練習しました。原文は全部私が書きますが、弘明副道場長の添削、検閲が入ります。合気道歴が古いので色々な事を知りすぎています。「ブログの文章で小林道場が誤解を受けるといけませんので」とカットになった部分がけっこうあります。代筆は一切有りませんが、かなり強烈な添削は有ります。ボツになった記事を皆さんが読むとかなり話題になると思います。
私が道場長ブログの第1号を書こうと思った動機は2005年12月の事です。「ALWAYS 三丁目の夕日」という映画を見たのがきっかけです。映画の主題が昭和33年(1958年)で建設中の東京タワーの建設現場が見える下町の人々の夢と希望、そして集団就職で東北から上京した少女が現実の厳しさに打ちのめされても負けずに打ち勝っていく庶民の日常生活を描いた物語です。映画を見ていて、その時代が懐かしく思い出されました。戦災で焼け後に建てたバラック、チンチン電車と言われた都電、庶民の服装、だれでも憧れた自動車など、当時の時代考証が目の前に現れ感激と懐かしさで一杯になりました。
当時、新宿の本部道場前には都電13番が走っていました。現在の靖国通りの歌舞伎町入口の所に都電の停留所があり、ゴールデン街を抜け本部道場の駅「抜け弁天」を通り飯田橋、秋葉原を経由し水天宮まででした。12番は新宿駅から四谷、市ヶ谷、九段を通り、神保町、須田町が終点です。私は九段上に住んでいましたので12番で本部道場に通い運賃は8円でした。本部道場の月会費が300円だったと思います。喫茶店のコヒーが35円で結構高く、アルバイトは大学生で一日150円から200円、大卒の初任給が12000円くらいでした。
昭和33年は私が大学を卒業した時です。大学在学中から合気道の稽古に夢中に成り、大学卒業後も就職せずに本部道場で稽古三昧に浸っていた時代です。好きな合気道の稽古に専念できた喜びだけでした。現代と違い、戦後で食べる物も物資も不足し、日本経済も発展途上で「働かざる者は食うべからず」という時代でした。仕事もせず親父から見れば道楽の合気道の稽古に専念している息子を一言の文句も云わず許してくれた親父には今でも感謝しています。親父の理解が無かったら、現在の合気道小林道場は存在しませんでした。皆さんとの出会いも無く又違った寂しい人生を送っていたでしょう。
本部道場の内弟子生活がアメリカの武道雑誌 「BRACK BELT」1966年5月号に掲載されました。当時の私達の内弟子生活が良く分かりますので写真を掲載します。
写真1、合気道創始者植芝盛平翁先生の後ろに座っているのが私です。
写真の解説 冬は凍るような寒さ、夏は蚊攻め
一カ月の給料が15ドル(一ドル360円の時代)
写真2、植芝吉祥丸本部道場長(当時)受けを取るのが私です。
写真3、当時は洗濯機が高価で一般家庭には有りません。自分や先輩の道衣の洗濯は「たわし」に石鹸を付けこすり、二人掛かりで絞りました。
第一回目のブログを読んだ事が無い人が多いと思いますので次のフィルムを見て下さい。
合気ニュースの「植芝盛平と合気道」DVDシリーズの中にアメリカのTV
「RENDER VOUS WITH ADVENTURE」(冒険との出会い)が有ります。映画三丁目の夕日と同じ頃でアメリカ人のカメラマンとレスラーが1958年東京タワー完成式に出席しながら、合気道本部道場を訪問し植芝盛平翁先生の話を聞き、合気道の稽古を体験する番組です。
20分ぐらいの番組ですが,当時の本部道場や稽古の様子そして植芝盛平翁先生、植芝吉祥丸二代道主そして当時、師範部長の藤平光一先生の演武で受けを取っている三人の中に私の若き姿が見られます。内容として注目する点は、藤平光一師範部長がレスラー相手に稽古をつける点と76才の翁先生の機敏な捌きと120キロのレスラーを引きずって行くその体力、力には感心します。
私の若くて華麗な受けどうですか?50年近く前の木造の本部道場で稽古する人々の様子をじっくり見て下さい。
2005年12月にブログを書き始めてみて、書く題材が直ぐ種切れになると思いました。しかし不思議と話題、問題に事欠かないのです。色々と次から次に起る事がブログの材料になってくれます。毎月2~3回ブログを書き続け6年半になりました。今後も書き続けます。是非読んでください。
答えは「勿論」です。文章を打つ為にブラインドタッチも練習しました。原文は全部私が書きますが、弘明副道場長の添削、検閲が入ります。合気道歴が古いので色々な事を知りすぎています。「ブログの文章で小林道場が誤解を受けるといけませんので」とカットになった部分がけっこうあります。代筆は一切有りませんが、かなり強烈な添削は有ります。ボツになった記事を皆さんが読むとかなり話題になると思います。
私が道場長ブログの第1号を書こうと思った動機は2005年12月の事です。「ALWAYS 三丁目の夕日」という映画を見たのがきっかけです。映画の主題が昭和33年(1958年)で建設中の東京タワーの建設現場が見える下町の人々の夢と希望、そして集団就職で東北から上京した少女が現実の厳しさに打ちのめされても負けずに打ち勝っていく庶民の日常生活を描いた物語です。映画を見ていて、その時代が懐かしく思い出されました。戦災で焼け後に建てたバラック、チンチン電車と言われた都電、庶民の服装、だれでも憧れた自動車など、当時の時代考証が目の前に現れ感激と懐かしさで一杯になりました。
当時、新宿の本部道場前には都電13番が走っていました。現在の靖国通りの歌舞伎町入口の所に都電の停留所があり、ゴールデン街を抜け本部道場の駅「抜け弁天」を通り飯田橋、秋葉原を経由し水天宮まででした。12番は新宿駅から四谷、市ヶ谷、九段を通り、神保町、須田町が終点です。私は九段上に住んでいましたので12番で本部道場に通い運賃は8円でした。本部道場の月会費が300円だったと思います。喫茶店のコヒーが35円で結構高く、アルバイトは大学生で一日150円から200円、大卒の初任給が12000円くらいでした。
昭和33年は私が大学を卒業した時です。大学在学中から合気道の稽古に夢中に成り、大学卒業後も就職せずに本部道場で稽古三昧に浸っていた時代です。好きな合気道の稽古に専念できた喜びだけでした。現代と違い、戦後で食べる物も物資も不足し、日本経済も発展途上で「働かざる者は食うべからず」という時代でした。仕事もせず親父から見れば道楽の合気道の稽古に専念している息子を一言の文句も云わず許してくれた親父には今でも感謝しています。親父の理解が無かったら、現在の合気道小林道場は存在しませんでした。皆さんとの出会いも無く又違った寂しい人生を送っていたでしょう。
本部道場の内弟子生活がアメリカの武道雑誌 「BRACK BELT」1966年5月号に掲載されました。当時の私達の内弟子生活が良く分かりますので写真を掲載します。
写真1、合気道創始者植芝盛平翁先生の後ろに座っているのが私です。
写真の解説 冬は凍るような寒さ、夏は蚊攻め
一カ月の給料が15ドル(一ドル360円の時代)
写真2、植芝吉祥丸本部道場長(当時)受けを取るのが私です。
写真3、当時は洗濯機が高価で一般家庭には有りません。自分や先輩の道衣の洗濯は「たわし」に石鹸を付けこすり、二人掛かりで絞りました。
第一回目のブログを読んだ事が無い人が多いと思いますので次のフィルムを見て下さい。
合気ニュースの「植芝盛平と合気道」DVDシリーズの中にアメリカのTV
「RENDER VOUS WITH ADVENTURE」(冒険との出会い)が有ります。映画三丁目の夕日と同じ頃でアメリカ人のカメラマンとレスラーが1958年東京タワー完成式に出席しながら、合気道本部道場を訪問し植芝盛平翁先生の話を聞き、合気道の稽古を体験する番組です。
20分ぐらいの番組ですが,当時の本部道場や稽古の様子そして植芝盛平翁先生、植芝吉祥丸二代道主そして当時、師範部長の藤平光一先生の演武で受けを取っている三人の中に私の若き姿が見られます。内容として注目する点は、藤平光一師範部長がレスラー相手に稽古をつける点と76才の翁先生の機敏な捌きと120キロのレスラーを引きずって行くその体力、力には感心します。
私の若くて華麗な受けどうですか?50年近く前の木造の本部道場で稽古する人々の様子をじっくり見て下さい。
2005年12月にブログを書き始めてみて、書く題材が直ぐ種切れになると思いました。しかし不思議と話題、問題に事欠かないのです。色々と次から次に起る事がブログの材料になってくれます。毎月2~3回ブログを書き続け6年半になりました。今後も書き続けます。是非読んでください。
by shihan_aikido
| 2011-07-14 15:39