明大合気道部OB感謝の集い |
仲秋の候、小林保雄先生、奥様には益々御健勝のことお慶び申しあげます。
私共も明治大学を卒業して、早いもので40年もの歳月が流れ、各々多くの岐路に立ちながら又いろいろな経験を積み今日に至っております。
この度は、先生ご夫妻が来仙なされるのを折に白川勝敏先輩から下の年度4代を集め思い出を語る会を開催してはの声が上がり今回の企画となったしだいです。 ・・・・・・・・
場所は秋保温泉 ホテル・・・
日時 9月11日 3時集合
参加者 13名 明大合気道部昭和44年、45年、46年、47年OB
合氣道神武錬成塾の講習会の案内とともに上記の様な手紙を頂きました。
私が道場を小平の自宅駐車場に建設した動機は安保闘争でした。大学は闘争の場となり授業は休校、部活もできない状態でした。合気道部員達に稽古場を提供するため自宅に道場を造る決心をしました。お金がなかったので手造りで建設を始めましたが、多くの人に助けられ昭和44年(1969年)4月に道場開きができました。その時に白川勝敏師範は当時明大合気道部の主将で演武してくれました。
合気道部員のために開いた道場ですので、毎週末に学生達が10〜15名と泊りがけで稽古にきます。若さに任せてよく食べるは、酒は飲むはで私達夫婦はその費用に頭を抱えました。その費用を出すために、子供や大人の稽古時間を設け会費を徴収したのが小林道場の出発点です。
道場を開設した昭和44年〜47年に学生が一番多く道場に出入りしたと思います。段々慣れてくると月曜日、火曜日まで居るようになり、道場から学校に通う学生もでてきました。
当時は今の様に大学の管理が煩くなく、学校の道場でコンパができ酒が自由に飲めました。部室に宿泊も勝手にできました。当時私や先輩から桐生の三馬鹿(桐生高校から入部した3名)といわれていた三人がいました。一年生からそうでしたが45年度に幹部になってもやる事が非常識でした。早朝6時半の学校での寒稽古は遅刻厳禁でした。幹部の3名は遅刻しない様に考え、道場の入り口に布団を敷き寝ていたこともあります。下級生は先輩をまたいで道場に入る分けにもゆかず皆呆然と立ちすくんでいました。私が行った時には布団の上にうっすら雪が積もっていました。朝2時頃まで麻雀をしていたので寝過ごすといけないので、下宿より道場の入り口まで布団を担いできて寝ていれば誰か起こしてくれると思ったそうです。又酔っ払い運転で捕まり、私が八王子警察まで貰い下げに行きました。私が行った時にはもう地検に回された後でした。こんなことは一例で、今でも学校が監督の私をよくくびにしなかったと感心しています。
昭和46年の学生は選挙の時、酒に酔い候補者のポスターを破ったということで明大合気道部1年生が約7〜8名警察に捕まりました。合気道部員証を飲み込んだりトイレで流したりし合気道部員で有る事を隠しました。合気道部の名前は出ませんでしたが、20歳を過ぎた学生は読売新聞全国版に明大生選挙ポスターを壊すと顔写真入りで掲載されたりもしました。
昭和44年の白川、追分両氏(現在合気道宮城県支部長と福島県支部長)が幹部の時は仙台合宿では余興として駅構内の電柱に登り、セミの真似して泣いたり、猿回しの真似をしたりして仙台駅長より仙台駅構内より300メート以内に近づかないように通達されました。新潟合宿では合宿打ち上げで酔った部員
が地元のやくざと喧嘩したりしました。
47年度の学生達は、稽古よりもよく飲みにきました。朝稽古の時など、更衣室に学生が二日酔いで倒れていると苦情がよくきました。或る年のクリスマスの時に「普段お世話に成っている先生夫妻を銀座に招待します」と、招待されました。クリスマス当日になっても何の連絡もないので騙されたと二人で嘆いていました。夕方7時頃学生が20名ぐらい道場に現れ「クリスマスは道場でします。貸して下さい」と言って飾り付けを行い盛大な飲めや歌えやのパーティを行い全員泊まって行きました。
本当に色々な事が有りました。私、女神様を悩やまし続けた反面、人と人との付き合いの楽しみを与えてくれた個性豊かな学生達でした。その思い出多いいOBの年代から来た手紙で、女神様も重い腰を上げ仙台、秋保温泉まで足を運び皆に会いに行きました。20年、30年、40年ぶりに会う人達もいます。学生時代の面影、性格は変わりませんが、はげたり、腹が出たり体型はかなり変化が有りました。もう定年になり第二の人生を歩んでいる人達がほとんどです。つい最近二度目の結婚をした幸せな人もいます。
大学運動部のOB会は合った時点で現在の社会的地位、名誉は一切関係なくなります。学生時代の入部年度の先輩、後輩にタイムスリップします。温泉旅館の部屋に15時に入り温泉に直行、部屋に帰りわずか一時間で冷蔵庫の酒完全になくなりました。17時半からの宴会がすでに二次会の雰囲気でした。
宴会が始まると一応、司会が一人ずつ現在の仕事や家族や孫の話も出ましたがいつの間にか体のあそこが痛い、癌で胃を切った、何で入院したとかの病気
の話が中心になり、病気に詳しい女神様の適切なアドバイスに皆感心して聞き入ったりしていました。病気の話になると元気、元気、元気な私は完全に仲間はずれになりました。それでも2時間半の宴会もあっという間に過ぎた感じがしました。三次会はカラオケに行かず30、40年年振りで会った人もいますので学生時代の思い出話が尽きず朝の3時まで話し込んだそうです。翌日、朝食の時も名残尽きず話し込んでいました。その後白川師範の利府道場に立ち寄り、津波の被災地を短時間見て回り名残惜しく解散しました。
何日か後に礼状に以下の事が書いてありました。
小林先生、奥様からも懐かしいお話や色々な病気体験話に対して適切なアドバイスなど頂き、時の経つのを忘れ楽しい時間を皆で過ごさせて頂きました。今、しみじみと感じますのは、あの当時クラブ活動をリタイヤしないで4年間先生のご指導の下、続けてきたからこの様な感激を体験できるものだと言うことであります。今後もこの様な企画の折にはお元気なお姿にてご臨席賜りたくお願い申し上げます。・・・・・・・
今後ともご指導の方よろしくお願い申し上げお礼とさせていただきます。
敬具