2012年 10月 15日
合氣道本部道場建設80周年、合気会財団設立認可70周年記念祝賀会 |
平成24年9月23日(日) 午後1時、京王ブラザ・コンコルドホールで開催されました。
出席者がなんと国内外の合氣道関係者1600名、さすがに広い京王ブラザ・コンコルドホールも山の手線、朝の通勤ラッシュ一歩手前の込み様です。私は定刻の20分前に会場に入りましたが真っ直ぐ歩けず人をかき分け、かき分けやっと正面に向かって右端の招待者のテーブルAに座る事ができました。招待者のテーブルは10テーブル位有ったと思います。勿論中央は植芝守央道主です。人が多く隣テーブルに誰が座っているか確認する気にもなりません。
何を間違えたのか開会の辞を話した人が通訳も付きましたので10分以上、道主のお話は外国からの参加者も多いので通訳が付くのは当たり前です。次が海部俊樹元総理、議員の亀井静香氏です。この二人の思い出話が長い事、二人で20分以上になりました。これにも多少の通訳が付いたのは驚きです。続いてドイツ大使の話です。日本語で自分も合気道を稽古している事を手短に話、それを自分で英語でも話ました。外国人も多かったのでこれは受けていました。功績の有った人の表彰、メインテーブルの来賓紹介、殆どが国会
議員か地方県議員です。やっと多田宏師範の乾杯の音頭です。これまで1時間です。
出席している人達は国内外の役員指導者クラスが殆どです。60才、70才位の人が多いいです。分けの分からぬ話で立ちっぱなし大変だったと思います。私はテーブルに座っていましたので楽でした。
海部元総理、亀井静香議員の挨拶を書いても仕方がないので、私との関係を書いてみます。海部俊樹氏が総理大臣だった時にインドネシアを訪問しました。その時に大使館職員に合気道の指導者が来ているから会いたいと話し探させました。インドネシアの合気道は中国人が教えているとの返事でした。そんな筈はないと云うこと再調査したら小林弘明道場長が指導者だとわかって総理と一緒に食事してそうです。小林弘明道場長が青年海外協力隊員としてインドネシアで指導していた時には、経済的に合気道を学べる人達は中華系の人が多いので中国語の堪能な弘明道場長が中国語で指導していたので誰も中国人と思っていたそうです。
亀井静香議員は年齢が私と一緒です。彼は東大合気道部員でした。大学合気道連盟を創ると云うので当時合気道部が有った明治、東大、早稲田2団体(富木流、合気会)、慶応、専修、中央大学7校でした。私も明大代表で立ち合いましたが合気会系、養神館系の大学で話が合わず別々に連盟を創ったいきさつが有ります。
Aテーブルには私、ニューヨークの山田嘉光師範、ドイツの浅井勝昭師範、荒川博氏、タイの深草基弘師範、シカゴの故藤平明師範婦人、ジョエーン女史、メキシコの栗田師範です。皆懐かしい人ばかりです。ニューヨークの山田師範はいま世界中を飛び回って指導しています。日本人師範が次々と亡くなっています。その穴を埋めるために山田師範に頼る人が多いからです。彼は親しみをこめて私を「やっさん」と呼びます。「やっさん」の息子に演武の受け身を取ってもらうとは夢にも思わなかった」とよく云います。弘明道場長がアメリカ留学中に演武会で山田師範の受けを取った事を今でも云っています。
浅井勝昭師範は明大合気道部の後輩で長い付き合いです。タイの深草基弘師範は私も彼の道場に何回も指導に行った事があります。東京経済大学合気道部、明大合気道部がタイ合宿でお世話に成っています。シカゴの故藤平明師範婦人、ジョエーン女史は私が本部指導部時代長い間個人稽古をした人です。メキシコの栗田師範は本部指導部時代の仲間で会うのは20年振りです。
荒川博氏は元巨人軍のコーチです。高校生の王選手を見つけ、巨人軍に入団させ一本足打法を教えてホームラン王にした人です。コーチ時代に合気道が野球に何か役立たないかと入門してきました。私が彼の個人稽古をしていました。植芝盛平翁先生が荒川コーチに一本足打法のヒントを教えた時の逸話が有ります。その時立ち会ったのは内弟子の私一人でした。此の事は合気ニュースの「第一回合気道友好演武会」の時に私も参加し一番初めの演武者の時に話しています。一度見て下さい。
宴会は人が多くて歩き回ると誰にも会えないと思いましたのでA席から離れませんでした。久しぶりに会う人が多く、写真や挨拶で大変でした。皆さん人を掻き分け探し回ってやっと見付けたと云っていました。料理など食べる暇も有りません。幸いなことに私はテーブル席でしたので、コンパニオンが飲み物は常に切らさぬ様に声を掛けてくれましたので切らすこと無く飲むことが出来ました。
15時には「宴たけなわですが、お時間と成りましたので」のアナウンスです。最後に植芝充央本部道場長代行閉会の挨拶でお開きになりました。大きな酒樽が二つありましたが、鏡割も無く、最後の手打ちも有りませんでした。後は何となく解散です。
一階で多くの知人に声を掛けたり、掛けられたりしました。最後に明治神宮、至誠館の初代館長、田中茂穂師範にお会いし一緒に写真を撮らせて頂きました。田中師範は私が入門した昭和30年に養神館に移られましたので直接の指導は受けておりません。その後東大合気道部の師範から明治神宮、至誠館の初代師範に成られました。当時日本とアメリカの安全保障条約で賛成、反対で大論争、大騒乱に成っていました。その条約の事前打ち合わせでアメリカのハガチー特使が羽田に来るからとの事が有りました。本部に来ていた右翼の先輩と田中師範がデモ破りに突入するから、お前も来いと私は誘われました。私も若かったので行きますと返事し本部道場で待機していました。特使の来日は中止になりデモ破り中止に成りました。田中師範とはこの様な思い出が有ります。今でも年賀状の遣り取りは続いています。懐かしい思い出です。
出席者がなんと国内外の合氣道関係者1600名、さすがに広い京王ブラザ・コンコルドホールも山の手線、朝の通勤ラッシュ一歩手前の込み様です。私は定刻の20分前に会場に入りましたが真っ直ぐ歩けず人をかき分け、かき分けやっと正面に向かって右端の招待者のテーブルAに座る事ができました。招待者のテーブルは10テーブル位有ったと思います。勿論中央は植芝守央道主です。人が多く隣テーブルに誰が座っているか確認する気にもなりません。
何を間違えたのか開会の辞を話した人が通訳も付きましたので10分以上、道主のお話は外国からの参加者も多いので通訳が付くのは当たり前です。次が海部俊樹元総理、議員の亀井静香氏です。この二人の思い出話が長い事、二人で20分以上になりました。これにも多少の通訳が付いたのは驚きです。続いてドイツ大使の話です。日本語で自分も合気道を稽古している事を手短に話、それを自分で英語でも話ました。外国人も多かったのでこれは受けていました。功績の有った人の表彰、メインテーブルの来賓紹介、殆どが国会
議員か地方県議員です。やっと多田宏師範の乾杯の音頭です。これまで1時間です。
出席している人達は国内外の役員指導者クラスが殆どです。60才、70才位の人が多いいです。分けの分からぬ話で立ちっぱなし大変だったと思います。私はテーブルに座っていましたので楽でした。
海部元総理、亀井静香議員の挨拶を書いても仕方がないので、私との関係を書いてみます。海部俊樹氏が総理大臣だった時にインドネシアを訪問しました。その時に大使館職員に合気道の指導者が来ているから会いたいと話し探させました。インドネシアの合気道は中国人が教えているとの返事でした。そんな筈はないと云うこと再調査したら小林弘明道場長が指導者だとわかって総理と一緒に食事してそうです。小林弘明道場長が青年海外協力隊員としてインドネシアで指導していた時には、経済的に合気道を学べる人達は中華系の人が多いので中国語の堪能な弘明道場長が中国語で指導していたので誰も中国人と思っていたそうです。
亀井静香議員は年齢が私と一緒です。彼は東大合気道部員でした。大学合気道連盟を創ると云うので当時合気道部が有った明治、東大、早稲田2団体(富木流、合気会)、慶応、専修、中央大学7校でした。私も明大代表で立ち合いましたが合気会系、養神館系の大学で話が合わず別々に連盟を創ったいきさつが有ります。
Aテーブルには私、ニューヨークの山田嘉光師範、ドイツの浅井勝昭師範、荒川博氏、タイの深草基弘師範、シカゴの故藤平明師範婦人、ジョエーン女史、メキシコの栗田師範です。皆懐かしい人ばかりです。ニューヨークの山田師範はいま世界中を飛び回って指導しています。日本人師範が次々と亡くなっています。その穴を埋めるために山田師範に頼る人が多いからです。彼は親しみをこめて私を「やっさん」と呼びます。「やっさん」の息子に演武の受け身を取ってもらうとは夢にも思わなかった」とよく云います。弘明道場長がアメリカ留学中に演武会で山田師範の受けを取った事を今でも云っています。
浅井勝昭師範は明大合気道部の後輩で長い付き合いです。タイの深草基弘師範は私も彼の道場に何回も指導に行った事があります。東京経済大学合気道部、明大合気道部がタイ合宿でお世話に成っています。シカゴの故藤平明師範婦人、ジョエーン女史は私が本部指導部時代長い間個人稽古をした人です。メキシコの栗田師範は本部指導部時代の仲間で会うのは20年振りです。
荒川博氏は元巨人軍のコーチです。高校生の王選手を見つけ、巨人軍に入団させ一本足打法を教えてホームラン王にした人です。コーチ時代に合気道が野球に何か役立たないかと入門してきました。私が彼の個人稽古をしていました。植芝盛平翁先生が荒川コーチに一本足打法のヒントを教えた時の逸話が有ります。その時立ち会ったのは内弟子の私一人でした。此の事は合気ニュースの「第一回合気道友好演武会」の時に私も参加し一番初めの演武者の時に話しています。一度見て下さい。
宴会は人が多くて歩き回ると誰にも会えないと思いましたのでA席から離れませんでした。久しぶりに会う人が多く、写真や挨拶で大変でした。皆さん人を掻き分け探し回ってやっと見付けたと云っていました。料理など食べる暇も有りません。幸いなことに私はテーブル席でしたので、コンパニオンが飲み物は常に切らさぬ様に声を掛けてくれましたので切らすこと無く飲むことが出来ました。
15時には「宴たけなわですが、お時間と成りましたので」のアナウンスです。最後に植芝充央本部道場長代行閉会の挨拶でお開きになりました。大きな酒樽が二つありましたが、鏡割も無く、最後の手打ちも有りませんでした。後は何となく解散です。
一階で多くの知人に声を掛けたり、掛けられたりしました。最後に明治神宮、至誠館の初代館長、田中茂穂師範にお会いし一緒に写真を撮らせて頂きました。田中師範は私が入門した昭和30年に養神館に移られましたので直接の指導は受けておりません。その後東大合気道部の師範から明治神宮、至誠館の初代師範に成られました。当時日本とアメリカの安全保障条約で賛成、反対で大論争、大騒乱に成っていました。その条約の事前打ち合わせでアメリカのハガチー特使が羽田に来るからとの事が有りました。本部に来ていた右翼の先輩と田中師範がデモ破りに突入するから、お前も来いと私は誘われました。私も若かったので行きますと返事し本部道場で待機していました。特使の来日は中止になりデモ破り中止に成りました。田中師範とはこの様な思い出が有ります。今でも年賀状の遣り取りは続いています。懐かしい思い出です。
by shihan_aikido
| 2012-10-15 09:58