2013年 04月 17日
第51回の今年の合気道演武大会に出場する事に成りました。 |
私、合気道小林道場総師範小林保雄は昭和30年(1955年)4月に合気道本部道場に入会しました。稽古を初めて3ヵ月後の9月に合氣道は初めて東京日本橋高島屋の屋上で一般公開をされました。これを機会に合気道が世間に知れ、又合気道創始者植芝盛平翁先生の健在が世に知れました。本部道場に合氣道を習う人達が増えだしました。
それでも戦後10年まだまだ日本経済は豊かで無く、合気道を稽古する人は微々たるも当時の本部道場でも朝、晩二回の稽古に15名来れば多い時代が続きました。当時は春に旧本部道場で植芝盛平翁先生の講習会が有り、その最終日か何かに演武会を開催したと思います。毎年その講習会日程は短く成って行きました。
そして昭和35年(1960年)5月14日に本部道場以外で演武会が開かれ第1回合気道演武大会と名付けて新宿山野ホールで開催されました。昭和36年は植芝盛平翁先生がハワイ合気会新道場落成祝賀会に出席される為にハワイに行かれましたので全日本演武大会は開催されませんでした。全日本演武大会が毎年続いてなかった事を私は今回メモや資料をしらべていて初めて気づきました。第2回は昭和37年4月29日に当時有楽町に有りました朝日新聞ホールでした。朝日新聞が積極的に合気道演武大会を後援した為に当日多くの人が集まり入場出来ない人が沢山でました。入場していた各大学合気道部員は入場出来ない一般人の為に席を譲る為退場したのを私が記憶しています。
その後の全日本演武大会は日比谷公会堂に移り、昭和38年(1963年)現在の本部道場が落成しました。合気道本部道場落成記念第6回全日本合気道演武会が10月5日に行われ植芝盛平翁先生も合気道の神髄を披露されましたがこれが生前最後の演武となりました。
昭和44年(1969年)26日に植芝盛平翁先生は入神されました。(その20日前に合気道小林道場小平道場が道場開きを行いました)第7回全日本合気道演武大会は開祖追悼演武大会として初めて日本武道館で行われました。
昭和45年(1970年)~昭和51年(1976年)第8回~14回全日本合気道演武大会は日比谷公開堂に戻りました。昭和52年(1977年)5月21日の第15回全日本合気道演武大会から日本武道館で開催される様になりました。第15回の時に道主植芝吉祥丸先生は始めて全日本演武大会参加者が1000名を超えたと祝杯を挙げたのを私は記憶しています。
以後毎年全日本合気道演武大会は5月に開催され続けてきました。昨年で第50回を重ねるまでに成りました。歳月人を待たず植芝吉祥丸二代道主、多くの私の先輩師範、同期の仲間の方々が鬼籍に入られたりし又海外に移住され帰国されなく成りました。全日本演武大会で続けて演武される方が減り続けていました。毎年道主の前のプログラムで演武される多田宏師範はイタリアに初めて合気道普及された方です。その間何年間は日本に帰国されませんでしたのでその間全日本演武会には出場されていません。第1回から昨年の第50回演武大会出場に連続で出場しているのは私一人と気付きました。
私も昨年で75才となり合気道小林道場道場長の役を息子弘明に譲り、国内、海外合気道小林道場グルーブ全体を統括する総師範となりました。現実の活動の第一線を退いた事に成りました。道主及び全日本演武大会担当に第50回目の演武会を最後に致しますと申し出ました。最後の我儘として親子3代での演武の許可を頂きました。私、弘明道場長、孫の香穂の3人で無事演武する事が出来一生の思い出をつくる事ができました。私を知る多くの方々がら来年演武されないのは残念だとの言葉も沢山頂きました。誠に光栄です。
4月に入り合気道小林道場に本部道場から第51回全日本演武大会に出場の依頼の事務連絡の手紙が来ました。出場しない私の変わりとして弘明道場長に初めての個人演武の依頼の連絡も頂きました。私は武道館に行き今年から皆さんの演武をのんびりと見学する事ができると思っていました。
4月13日朝9時に突然本部道場の宮本鶴蔵師範か第51回全日本演武大会に出場する為の依頼の電話でした。勿論私は昨年第50回の演武大会の席上、大観衆の前でこれが全日本での最後の演武と宣言しています。私は「勿論出場出来ません」と返事しました。宮本師範は「道主植芝守央先生の言葉を私は伝えています。道主の要請です」と云われました。私は一瞬混乱しながらも道主植芝守央先生の要請では断るわけには行きません。宮本鶴 造師範に「第51回全日本演武大会に出場させて頂きます」と答えさせて頂きました。非常の光栄ある事ですが気持ち的には複雑です。出場するからには体調を万全に整えて皆さんの前で立派な演武が出来るようする覚悟です。

そして昭和35年(1960年)5月14日に本部道場以外で演武会が開かれ第1回合気道演武大会と名付けて新宿山野ホールで開催されました。昭和36年は植芝盛平翁先生がハワイ合気会新道場落成祝賀会に出席される為にハワイに行かれましたので全日本演武大会は開催されませんでした。全日本演武大会が毎年続いてなかった事を私は今回メモや資料をしらべていて初めて気づきました。第2回は昭和37年4月29日に当時有楽町に有りました朝日新聞ホールでした。朝日新聞が積極的に合気道演武大会を後援した為に当日多くの人が集まり入場出来ない人が沢山でました。入場していた各大学合気道部員は入場出来ない一般人の為に席を譲る為退場したのを私が記憶しています。

昭和44年(1969年)26日に植芝盛平翁先生は入神されました。(その20日前に合気道小林道場小平道場が道場開きを行いました)第7回全日本合気道演武大会は開祖追悼演武大会として初めて日本武道館で行われました。
昭和45年(1970年)~昭和51年(1976年)第8回~14回全日本合気道演武大会は日比谷公開堂に戻りました。昭和52年(1977年)5月21日の第15回全日本合気道演武大会から日本武道館で開催される様になりました。第15回の時に道主植芝吉祥丸先生は始めて全日本演武大会参加者が1000名を超えたと祝杯を挙げたのを私は記憶しています。

私も昨年で75才となり合気道小林道場道場長の役を息子弘明に譲り、国内、海外合気道小林道場グルーブ全体を統括する総師範となりました。現実の活動の第一線を退いた事に成りました。道主及び全日本演武大会担当に第50回目の演武会を最後に致しますと申し出ました。最後の我儘として親子3代での演武の許可を頂きました。私、弘明道場長、孫の香穂の3人で無事演武する事が出来一生の思い出をつくる事ができました。私を知る多くの方々がら来年演武されないのは残念だとの言葉も沢山頂きました。誠に光栄です。

4月13日朝9時に突然本部道場の宮本鶴蔵師範か第51回全日本演武大会に出場する為の依頼の電話でした。勿論私は昨年第50回の演武大会の席上、大観衆の前でこれが全日本での最後の演武と宣言しています。私は「勿論出場出来ません」と返事しました。宮本師範は「道主植芝守央先生の言葉を私は伝えています。道主の要請です」と云われました。私は一瞬混乱しながらも道主植芝守央先生の要請では断るわけには行きません。宮本鶴 造師範に「第51回全日本演武大会に出場させて頂きます」と答えさせて頂きました。非常の光栄ある事ですが気持ち的には複雑です。出場するからには体調を万全に整えて皆さんの前で立派な演武が出来るようする覚悟です。
by shihan_aikido
| 2013-04-17 16:56