2014年 04月 02日
日本の大学合気道部にも外国人の主将、副将が誕生 |
私が植芝吉祥丸二代道主の勧めで明治大学に合気道部を創部したのが昭和32年(1957年)4月です。新宿の本部道場に稽古に来ていた明大生に声を掛け合気道部を結成し稽古しだしました。吉祥丸先生は多くの大学生に声を掛けましたので此の頃から大学合気部が増えだました。昭和36年(1961年)6月に関東学生連盟が発足、参加した大学は亜細亜大学、学習院大学、慶応大学、国学院大学、駒沢大学、東京経済大学、東洋大学、法政大学、防衛大学、武蔵大学、明治大学、早稲田大学の12校でした。それから53年、現在では全国合気道盟123校、連盟未加入の大学63校、合計184校に成っています。
私が指導した生徒から外国人の主将、副将が生まれました。弘前大学合気道部50代主将、明治大学体育会合気道部 代副将が生まれています。
弘前大学合気道部 第50主将 ドブローカ・ミハイ2段(国籍ハンガリー)
ミハイ2段は小3の時に合気道創始者植芝盛平翁先生の写真の多く出ている本を買い合気道に興味を持ちました。彼の町、ハンガリーのミシュコルツ市の合気道道場は子供クラスが無く稽古出来たのは2002年10月12才の時からです。本を何回も読んでいたので技の名前は憶えていて、入門した時に道場の人達に不思議がられたそうです。私とミハイとの出会いは2003年8月のエゲル市の講習会でした。ハンガリーは温泉が各地に有ります。私は忘れていましたが、一緒に温泉に入った時、彼は私にコーラを買って飲ましてくれたと云っていました。有難う感謝しています。
合気道小林道場とハンガリーの関わりはベルリンの壁が崩壊した1989年11月迄遡ります。JICAは東欧の情報が無いので収集の為に日本語教師、柔道、合気道5名のシニア隊員を派遣しました。合気道家の一人として現小林弘明道場長が選ばれました。実は選ばれたと云うよりも、東西冷戦の終結という歴史的事件の中です。どの様な混乱、危険が起こるかも知れないので希望者が居なかったのです。
弘明道場長は1989年4月に平成元年青年海外協力隊合気道隊員としてインドネシアに2年半派遣され1991年に帰国しました。1992年正月、JICAの事務所に何気なく電話しました。「直ぐ来い」と云われて事務所に行くと、彼の東欧行のパスポートが出来上がっており渡されました。「行ってもらわないと困る」と懇願されました。僅か3カ月勤めた会社を辞め、2月には出発しました。ポーランド、ワルシャワを中心に半年間合気道の指導をしました。
1993年春に私は弘明道場長に会い行きました。空港に着き、税関を出ると3名の見知らぬ青年が「合気道小林保雄師範」と書いたプラカードを持って立っていました。私が話かけると「ハンガリーのブタペストから電車で8時間掛けて先生に会いに来ました。私達はコンゴ人の先生から合気道を習っているが、本当の合気道では無いと最近思いました」と云うのです。「本当の合気道を教えて下さい」と私に頭を下げました。私は「教えるのは構わない私達が来る航空券代は有るのか?」「有りません」との事です。しかし3名の青年の顔や態度が合気道を習いたいと云う純粋な真剣味を感じました。私は「合気道小林道場が無料でハンガリーに指導員を年一回派遣する。宿泊と食事代は君等で持つ事」と云い1994年には指導部の故田村恒夫指導員を即派遣しました。田村恒夫指導員は私の従弟で亡くなるまでハンガリーの指導に携わってくれました。この3名はサボー・バラシュ氏、ユハス・チャバ氏・シュクチ・ラスロ氏の3氏で現在立派な合気道の指導者に成っています。
2、3年経つと段々と稽古する人も増えて来ました。「先生、飛行機代の半分だせます、全額だせます」「先生達のホテル代そして謝礼も」と成ってきました。1996年8月に再度私がハンガリーに指導に行き、夏の講習会だけではなく、イースターの時期にも講習会を持つ様に提案しました。これも実行すると講習会に稽古人が集まるように成りました。2014年現在ハンガリー合気道小林道場協会に所属する道場は44道場で人数は1、000名を超えています。合気道専門家も何名か育ってきています。幾つかあるハンガリーの合気道の組織で一番大きな団体に成っています。小林道場が援助し撒いた種がこんなに大きくなるとは想像できませんでした。皆さんから援助して頂いている「むすび基金」の成果です。心より感謝します。
」
さて又ミハイ2段に戻ります。ハンガリーでは中学、高校とも部活と云うのが無いと彼は云っています。合気道は町道場で続け、デブレッエン大学の理工学部に入学しました。合気道を通して日本語にも興味を持ちましたので、日本人の先生に日本語の指導を3年受けました。そして2011年9月に弘前大学に入学し、合気道部にも入部し初段を取得しました。春休みには
「小林道場住み込み制度」で修業しました。その時の感想は合気道小林道場ホームページの「住み込み感想文」読んで下さい。
2012年4月弘前大学大学院に戻り、弘前大学合気道部第50代主将に就任しました。創部50周記念行事を外国人主将ですが、日本独特の習慣やしがらみを乗り越え、準備や運営に携わり植芝守央道主をお呼びして立派に成功させたと聞いております。私も感心していますし、今後社会に出て大いに役に立つ事をしたと思います。12月には2段も取得しました。背が高く、ハンサムで性格も理論的な物理学を勉強しているので繊細、やさしいです。女性にもてるのでは?私はしりませんが。今後も専門の超伝導の勉強と合気道に頑張って青春をも謳歌して下さい。
このブログを読んだ弘前大学合気道部の先輩、現役の皆さんミハイ2段の事を小林道場ブログに投稿して下さい。東北合気道連盟の宮城県支部長白川勝敏師範、福島県支部長追分拓哉師範は明大体育会合気道部OBです。機会が有れば弘前大学と明大との合同稽古もいいものではないですか?
明治大学体育会合気道部 56代副将 ビィックギュゼル・レシェップ初段
1999年9月トルコ、アンカラで高校を卒業、Ocik Ogretim大学入学、父の「おもちゃ屋」を手伝いながら勉強しました。しかし中退して留学、ニュージランドのネルソン町で一年間英語の勉強をしました。その時に知り合った日本人の友人を頼り日本え来ました。2007年9月、東京都板橋区のJET日本語学校で2年間日本語の勉強をしました。
東京で幾つかの大学を受験しました。大学受験で面接の時、日本語学校で教わった通りの模範解答をしましたが、不合格でした。明治大学受験面接の時に、日本語学校の指示通りでなく、自分の好きな話をしようと決心し受験に臨みました。面接の時にトルコの映画の話をしました。面接の教授に映画に興味ある人が居て面接は盛りあがり無事明治大学に入学で来たそうです。
レシェップ初段はトルコで20才の時、植芝盛平翁先生の写真で合気道の事を知りました。稽古場所が無く稽古出来ず、合気道の事には関心を持っていました。ニュージランドのネルソン町に語学留学した時に、知り合ったスウェーデンの友達がいます。彼が合気道を習っていたので今思えば小手返しの技を掛けられと云っていました。
皆さんご存知の様に小林道場とスウェーデン合気道とは重要な関係が有ります。私は東洋大学合気道部の創部から関係し、20年以上部の師範として指導しました。初代主将の市村俊和氏がスウェーデンで始めて合気道を指導、普及しました。この関係で 年夏に私が指導に行きました。その後当時小林道場指導部の五十嵐和男師範を約1年派遣しました。当時20才前後の若者を小林道場に内弟子として長期に住み込ませ教育しました。ウルバン、ウルフ師範達です。帰国後ストックホルムの中心街に弥栄(いやさか)道場開き、門弟500名のスウェーデンで一番大きな合気道道場に成っています。レシェップ初段も不思議と小林道場に赤い糸で繋がっていたのです。
日本の様に学校の部活と云うものが全然無いそうです。明大入学と同時に体育会合気道部に入部しました。始めは色々な事で理解出来ず戸惑う事ばかりだそうです。自分が好きな運動を行うにはスポーツクラブで学びますのですから一番の戸惑は先輩、後輩という概念の理解です。そして、部活独特の日本語です。
挨拶が「チワー」としか聞こえず辞書を引いても意味不明です。オオカミの「雄叫び」に聞こえてと云っていました。技の説明以外日本語の意味を聞くと、段々先輩達も面倒くさく成って嫌がられる事が度々でした。しかし、日本語の上達には本当に役に立ったとしみじみ云っていました。好きで始めた合気道で他の部員よりも5、6才年上ですので大人の目で年下の日本人の先輩の理不尽な言葉も耐えたとの事です。
一年生の夏の合宿の後、小林道場の小平、所沢、府中各道場の稽古参加出来るようになりました。来ている人達の幅の広さと道場の雰囲気に魅せられ益々合気道のめり込んでいきました。府中道場は駅前に有り、明大前から近いので授業時間の合間など稽古に来ました。トルコはイスラムですが彼は酒、豚骨ラーメンをこよなく愛しました。木曜日の夜府中道場に泊り、小柳師範に所沢道場の朝稽古に連れて来られました。 そこで、色々な国から来ている外国人内弟子と友達に成り、朝飯を一緒に作り、事務なども手伝うように成りました。
東北大地震が起こり、両親は直ぐ帰国を促されました。それを振り切り明大の留学生仲間でボランテアの会を作り明大、銀行からの援助で一年間休部し石巻でのボランテア活動後復帰しました。
伝統有る明大体育会という特殊な部活を耐え抜き、一年休部というハンデも乗り越え栄えある56代合気道部の副将に選ばれました。幹部の時は下級生の指導、部の対外的な活動を立派に務めてくれました。後輩には入部したら辞めないこと、学校での稽古以外に先輩達の道場に稽古にでて、社会人と付き合い部活では得られないものを習得する事を伝えてくださいとの事でした。
今は所沢道場に住み込み毎日稽古に励んでいます。風邪も引かず、怪我もせず小林道場の会員にかわいがられながら稽古しています。今後もレジェップの事宜しくお願いします。
私が指導した生徒から外国人の主将、副将が生まれました。弘前大学合気道部50代主将、明治大学体育会合気道部 代副将が生まれています。
弘前大学合気道部 第50主将 ドブローカ・ミハイ2段(国籍ハンガリー)
ミハイ2段は小3の時に合気道創始者植芝盛平翁先生の写真の多く出ている本を買い合気道に興味を持ちました。彼の町、ハンガリーのミシュコルツ市の合気道道場は子供クラスが無く稽古出来たのは2002年10月12才の時からです。本を何回も読んでいたので技の名前は憶えていて、入門した時に道場の人達に不思議がられたそうです。私とミハイとの出会いは2003年8月のエゲル市の講習会でした。ハンガリーは温泉が各地に有ります。私は忘れていましたが、一緒に温泉に入った時、彼は私にコーラを買って飲ましてくれたと云っていました。有難う感謝しています。
合気道小林道場とハンガリーの関わりはベルリンの壁が崩壊した1989年11月迄遡ります。JICAは東欧の情報が無いので収集の為に日本語教師、柔道、合気道5名のシニア隊員を派遣しました。合気道家の一人として現小林弘明道場長が選ばれました。実は選ばれたと云うよりも、東西冷戦の終結という歴史的事件の中です。どの様な混乱、危険が起こるかも知れないので希望者が居なかったのです。
弘明道場長は1989年4月に平成元年青年海外協力隊合気道隊員としてインドネシアに2年半派遣され1991年に帰国しました。1992年正月、JICAの事務所に何気なく電話しました。「直ぐ来い」と云われて事務所に行くと、彼の東欧行のパスポートが出来上がっており渡されました。「行ってもらわないと困る」と懇願されました。僅か3カ月勤めた会社を辞め、2月には出発しました。ポーランド、ワルシャワを中心に半年間合気道の指導をしました。
1993年春に私は弘明道場長に会い行きました。空港に着き、税関を出ると3名の見知らぬ青年が「合気道小林保雄師範」と書いたプラカードを持って立っていました。私が話かけると「ハンガリーのブタペストから電車で8時間掛けて先生に会いに来ました。私達はコンゴ人の先生から合気道を習っているが、本当の合気道では無いと最近思いました」と云うのです。「本当の合気道を教えて下さい」と私に頭を下げました。私は「教えるのは構わない私達が来る航空券代は有るのか?」「有りません」との事です。しかし3名の青年の顔や態度が合気道を習いたいと云う純粋な真剣味を感じました。私は「合気道小林道場が無料でハンガリーに指導員を年一回派遣する。宿泊と食事代は君等で持つ事」と云い1994年には指導部の故田村恒夫指導員を即派遣しました。田村恒夫指導員は私の従弟で亡くなるまでハンガリーの指導に携わってくれました。この3名はサボー・バラシュ氏、ユハス・チャバ氏・シュクチ・ラスロ氏の3氏で現在立派な合気道の指導者に成っています。
2、3年経つと段々と稽古する人も増えて来ました。「先生、飛行機代の半分だせます、全額だせます」「先生達のホテル代そして謝礼も」と成ってきました。1996年8月に再度私がハンガリーに指導に行き、夏の講習会だけではなく、イースターの時期にも講習会を持つ様に提案しました。これも実行すると講習会に稽古人が集まるように成りました。2014年現在ハンガリー合気道小林道場協会に所属する道場は44道場で人数は1、000名を超えています。合気道専門家も何名か育ってきています。幾つかあるハンガリーの合気道の組織で一番大きな団体に成っています。小林道場が援助し撒いた種がこんなに大きくなるとは想像できませんでした。皆さんから援助して頂いている「むすび基金」の成果です。心より感謝します。
」
さて又ミハイ2段に戻ります。ハンガリーでは中学、高校とも部活と云うのが無いと彼は云っています。合気道は町道場で続け、デブレッエン大学の理工学部に入学しました。合気道を通して日本語にも興味を持ちましたので、日本人の先生に日本語の指導を3年受けました。そして2011年9月に弘前大学に入学し、合気道部にも入部し初段を取得しました。春休みには
「小林道場住み込み制度」で修業しました。その時の感想は合気道小林道場ホームページの「住み込み感想文」読んで下さい。
2012年4月弘前大学大学院に戻り、弘前大学合気道部第50代主将に就任しました。創部50周記念行事を外国人主将ですが、日本独特の習慣やしがらみを乗り越え、準備や運営に携わり植芝守央道主をお呼びして立派に成功させたと聞いております。私も感心していますし、今後社会に出て大いに役に立つ事をしたと思います。12月には2段も取得しました。背が高く、ハンサムで性格も理論的な物理学を勉強しているので繊細、やさしいです。女性にもてるのでは?私はしりませんが。今後も専門の超伝導の勉強と合気道に頑張って青春をも謳歌して下さい。
このブログを読んだ弘前大学合気道部の先輩、現役の皆さんミハイ2段の事を小林道場ブログに投稿して下さい。東北合気道連盟の宮城県支部長白川勝敏師範、福島県支部長追分拓哉師範は明大体育会合気道部OBです。機会が有れば弘前大学と明大との合同稽古もいいものではないですか?
明治大学体育会合気道部 56代副将 ビィックギュゼル・レシェップ初段
1999年9月トルコ、アンカラで高校を卒業、Ocik Ogretim大学入学、父の「おもちゃ屋」を手伝いながら勉強しました。しかし中退して留学、ニュージランドのネルソン町で一年間英語の勉強をしました。その時に知り合った日本人の友人を頼り日本え来ました。2007年9月、東京都板橋区のJET日本語学校で2年間日本語の勉強をしました。
東京で幾つかの大学を受験しました。大学受験で面接の時、日本語学校で教わった通りの模範解答をしましたが、不合格でした。明治大学受験面接の時に、日本語学校の指示通りでなく、自分の好きな話をしようと決心し受験に臨みました。面接の時にトルコの映画の話をしました。面接の教授に映画に興味ある人が居て面接は盛りあがり無事明治大学に入学で来たそうです。
レシェップ初段はトルコで20才の時、植芝盛平翁先生の写真で合気道の事を知りました。稽古場所が無く稽古出来ず、合気道の事には関心を持っていました。ニュージランドのネルソン町に語学留学した時に、知り合ったスウェーデンの友達がいます。彼が合気道を習っていたので今思えば小手返しの技を掛けられと云っていました。
皆さんご存知の様に小林道場とスウェーデン合気道とは重要な関係が有ります。私は東洋大学合気道部の創部から関係し、20年以上部の師範として指導しました。初代主将の市村俊和氏がスウェーデンで始めて合気道を指導、普及しました。この関係で 年夏に私が指導に行きました。その後当時小林道場指導部の五十嵐和男師範を約1年派遣しました。当時20才前後の若者を小林道場に内弟子として長期に住み込ませ教育しました。ウルバン、ウルフ師範達です。帰国後ストックホルムの中心街に弥栄(いやさか)道場開き、門弟500名のスウェーデンで一番大きな合気道道場に成っています。レシェップ初段も不思議と小林道場に赤い糸で繋がっていたのです。
日本の様に学校の部活と云うものが全然無いそうです。明大入学と同時に体育会合気道部に入部しました。始めは色々な事で理解出来ず戸惑う事ばかりだそうです。自分が好きな運動を行うにはスポーツクラブで学びますのですから一番の戸惑は先輩、後輩という概念の理解です。そして、部活独特の日本語です。
挨拶が「チワー」としか聞こえず辞書を引いても意味不明です。オオカミの「雄叫び」に聞こえてと云っていました。技の説明以外日本語の意味を聞くと、段々先輩達も面倒くさく成って嫌がられる事が度々でした。しかし、日本語の上達には本当に役に立ったとしみじみ云っていました。好きで始めた合気道で他の部員よりも5、6才年上ですので大人の目で年下の日本人の先輩の理不尽な言葉も耐えたとの事です。
一年生の夏の合宿の後、小林道場の小平、所沢、府中各道場の稽古参加出来るようになりました。来ている人達の幅の広さと道場の雰囲気に魅せられ益々合気道のめり込んでいきました。府中道場は駅前に有り、明大前から近いので授業時間の合間など稽古に来ました。トルコはイスラムですが彼は酒、豚骨ラーメンをこよなく愛しました。木曜日の夜府中道場に泊り、小柳師範に所沢道場の朝稽古に連れて来られました。 そこで、色々な国から来ている外国人内弟子と友達に成り、朝飯を一緒に作り、事務なども手伝うように成りました。
東北大地震が起こり、両親は直ぐ帰国を促されました。それを振り切り明大の留学生仲間でボランテアの会を作り明大、銀行からの援助で一年間休部し石巻でのボランテア活動後復帰しました。
伝統有る明大体育会という特殊な部活を耐え抜き、一年休部というハンデも乗り越え栄えある56代合気道部の副将に選ばれました。幹部の時は下級生の指導、部の対外的な活動を立派に務めてくれました。後輩には入部したら辞めないこと、学校での稽古以外に先輩達の道場に稽古にでて、社会人と付き合い部活では得られないものを習得する事を伝えてくださいとの事でした。
今は所沢道場に住み込み毎日稽古に励んでいます。風邪も引かず、怪我もせず小林道場の会員にかわいがられながら稽古しています。今後もレジェップの事宜しくお願いします。
by shihan_aikido
| 2014-04-02 10:23