2014年 09月 19日
8年振りの体育会明大合気道部三重県紀北町合宿参加 その1 |
合宿に参加して分かった事は現役の学生達が合気道部の歴史を殆ど知らない事です。 一部を明大合気道部の簡単な歴史、二部を今回の三重県北牟婁郡紀北町合宿について書いてみます。
第一部 明大体育会合気道部歴史
私、小林保雄は明治大学工学部電気工学科に昭和30年(1955年)4月に入学しました。今でも忘れない学籍番号は0255です。昭和30年の0と募集人員250名そして補欠5名ですので0255です。一番後ろの成績の入学でした。
明大入学の4月末に合気道本部道場に入門し、合気道の稽古を始めました。小学生から講道館で柔道をしていましたので、合気道本部道場での稽古は何の抵抗も無く本部道場の人達の中に溶け込んで行きました。当時の本部道場の稽古参加者は10名~15名で20名以上来れば「今日は稽古参加者が多い」と云った時代です。
2代道主植芝吉祥丸先生の勧めで明大に合気道部を創る事になりました。当時本部道場に稽古に来ていた明大生、3年生、小林保雄、2年生、佐居 守、1年生、故深津昌雄(彼の叔父、望月稔師範は柔道家、合気道家でフランスに合気道を始めて紹介した人)そして養神館で稽古していた3年、宮尾賢照が中心となり、体育課に同好会の申請をしました。部としての稽古は飯田橋の近くの柔道の30畳の道場を借りて週2回から始めました。
合気道部員を募集してみると60名~80名の入部希望者が直ぐ集まりました。合気道がめずらしかったのと、大学生活が現代の様に多様化された時代では無かったので希望者が殺到したのです。30畳の道場では30名も経てば満員です。
残りの半分30名は皇居一周のマラソンです。マラソン組が帰ってくると、稽古していた人達が走るのです。全員で稽古したことが無く合宿までは部員全員を知っていたのは幹部の私、佐居、深津位でした。新入生歓迎会(当時はコンパと云う言葉無かった)を開いた記憶は有りません。合宿までは本部道場にて稽古していた者以外は、全員合気道が初心者です。1年から4年まで同等の扱いでした。
合宿は静岡に有る望月稔師範の養正館道場でした。この合宿終了後、学年での差別を採り入れました。その後中学生から合気道を稽古していた浅井勝昭が1年部員ながら2段で入部してきました。此の頃に成ると和泉校舎の道場も使える様になりました。校内の道場使用と指導が充実したのか、2年後輩の学年は25名が卒業まで部員として活動してくれました。浅井勝昭は2年間就職しましたが、その後ドイツに渡りドイツで始めて合気道を指導、普及しました。ドイツ合気会は来年50周年を迎えます。4月の記念式典に私は呼ばれています。
その後、世界的に活躍している監督、五十嵐和男、現在宮城県合気道連盟会長の白川勝敏、福島県合気道連盟会長の追分拓哉、ブラジルに合気道普及をしている鹿内一民、 荒井清の同期7段が4名も出ている年度もあります。この代が幹部の時に合気道小林道場が小平の自宅に開設されました。学生運動で大学が閉鎖され、学生達の稽古の場提供で合気道小平小林道場が開設されました。この道場が評判に成り三多摩、埼玉、神奈川、千葉と広がり合気道の大きな広がりに成りました。その後海外にまで広がりました。
合気道部は同好会から1969年に体育会合気道部に昇格になりました。部活の一環として、海外合宿も計画、第1回は台湾に海外合宿をしました。これを機会に合気道部部員の時に一度は海外を体験させる制度が確立されました。現在も3年毎に海外遠征を続けてきました。この制度を大学合気道部で定着させたのは明大合気道部だけです。一年で台湾海外合宿に参加した林(青木)了子は卒業後、警視庁に婦人警官として奉職しました。現在は警視庁婦人警官の合気道指導者の最高責任者に成っています。
どんな組織でも山有り谷あり苦難の道を歩みます。合気道部員2、3名の時代もありました。しかし、それぞれの代の幹部達が全力で勉強と合気道部の部活で自分達の青春をぶつけて駆け抜けて、社会に出て活躍しています。部発足以来初の外国人、トルコ人のレセップが明大入学と同時に合気道部に入部、4年間部員として稽古を続けてくれました。2年前に卒業しましたが人生何を間違えたか現在合気道小林道場の内弟子として厳しい修業を積んでいます。
今年で創立58年です。名誉監督の小林保雄、監督の五十嵐和男以下先に書いた様な多くの合気道の専門家も育っています。また今回、合気道部が合宿した場所はOBで三重県紀北町の町長の尾上壽一が責任者や成ってきほく合気道同好会があります。この様明大合気道部OBが責任者や指導担当をしている合気道会が日本各地で沢山あります。明大体育会合気道部の関係者を結集すれば合氣道界でも大きな勢力になると自負しています。現役諸君、現在部員が男女22名います。合宿を機会に新幹部に成った部員は誇りを持って、部活を行い後輩を導いて下さい。
第一部 明大体育会合気道部歴史
私、小林保雄は明治大学工学部電気工学科に昭和30年(1955年)4月に入学しました。今でも忘れない学籍番号は0255です。昭和30年の0と募集人員250名そして補欠5名ですので0255です。一番後ろの成績の入学でした。
明大入学の4月末に合気道本部道場に入門し、合気道の稽古を始めました。小学生から講道館で柔道をしていましたので、合気道本部道場での稽古は何の抵抗も無く本部道場の人達の中に溶け込んで行きました。当時の本部道場の稽古参加者は10名~15名で20名以上来れば「今日は稽古参加者が多い」と云った時代です。
2代道主植芝吉祥丸先生の勧めで明大に合気道部を創る事になりました。当時本部道場に稽古に来ていた明大生、3年生、小林保雄、2年生、佐居 守、1年生、故深津昌雄(彼の叔父、望月稔師範は柔道家、合気道家でフランスに合気道を始めて紹介した人)そして養神館で稽古していた3年、宮尾賢照が中心となり、体育課に同好会の申請をしました。部としての稽古は飯田橋の近くの柔道の30畳の道場を借りて週2回から始めました。
合気道部員を募集してみると60名~80名の入部希望者が直ぐ集まりました。合気道がめずらしかったのと、大学生活が現代の様に多様化された時代では無かったので希望者が殺到したのです。30畳の道場では30名も経てば満員です。
残りの半分30名は皇居一周のマラソンです。マラソン組が帰ってくると、稽古していた人達が走るのです。全員で稽古したことが無く合宿までは部員全員を知っていたのは幹部の私、佐居、深津位でした。新入生歓迎会(当時はコンパと云う言葉無かった)を開いた記憶は有りません。合宿までは本部道場にて稽古していた者以外は、全員合気道が初心者です。1年から4年まで同等の扱いでした。
合宿は静岡に有る望月稔師範の養正館道場でした。この合宿終了後、学年での差別を採り入れました。その後中学生から合気道を稽古していた浅井勝昭が1年部員ながら2段で入部してきました。此の頃に成ると和泉校舎の道場も使える様になりました。校内の道場使用と指導が充実したのか、2年後輩の学年は25名が卒業まで部員として活動してくれました。浅井勝昭は2年間就職しましたが、その後ドイツに渡りドイツで始めて合気道を指導、普及しました。ドイツ合気会は来年50周年を迎えます。4月の記念式典に私は呼ばれています。
その後、世界的に活躍している監督、五十嵐和男、現在宮城県合気道連盟会長の白川勝敏、福島県合気道連盟会長の追分拓哉、ブラジルに合気道普及をしている鹿内一民、 荒井清の同期7段が4名も出ている年度もあります。この代が幹部の時に合気道小林道場が小平の自宅に開設されました。学生運動で大学が閉鎖され、学生達の稽古の場提供で合気道小平小林道場が開設されました。この道場が評判に成り三多摩、埼玉、神奈川、千葉と広がり合気道の大きな広がりに成りました。その後海外にまで広がりました。
合気道部は同好会から1969年に体育会合気道部に昇格になりました。部活の一環として、海外合宿も計画、第1回は台湾に海外合宿をしました。これを機会に合気道部部員の時に一度は海外を体験させる制度が確立されました。現在も3年毎に海外遠征を続けてきました。この制度を大学合気道部で定着させたのは明大合気道部だけです。一年で台湾海外合宿に参加した林(青木)了子は卒業後、警視庁に婦人警官として奉職しました。現在は警視庁婦人警官の合気道指導者の最高責任者に成っています。
どんな組織でも山有り谷あり苦難の道を歩みます。合気道部員2、3名の時代もありました。しかし、それぞれの代の幹部達が全力で勉強と合気道部の部活で自分達の青春をぶつけて駆け抜けて、社会に出て活躍しています。部発足以来初の外国人、トルコ人のレセップが明大入学と同時に合気道部に入部、4年間部員として稽古を続けてくれました。2年前に卒業しましたが人生何を間違えたか現在合気道小林道場の内弟子として厳しい修業を積んでいます。
今年で創立58年です。名誉監督の小林保雄、監督の五十嵐和男以下先に書いた様な多くの合気道の専門家も育っています。また今回、合気道部が合宿した場所はOBで三重県紀北町の町長の尾上壽一が責任者や成ってきほく合気道同好会があります。この様明大合気道部OBが責任者や指導担当をしている合気道会が日本各地で沢山あります。明大体育会合気道部の関係者を結集すれば合氣道界でも大きな勢力になると自負しています。現役諸君、現在部員が男女22名います。合宿を機会に新幹部に成った部員は誇りを持って、部活を行い後輩を導いて下さい。
by shihan_aikido
| 2014-09-19 18:49