2015年 03月 19日
全日本合気道演武大会 第1回大会の出場の証明 |
3月初めに成ると合気道小林道場と私、個人に5月23日に日本武道館で開催される第53回全日本合気道演武大会の参加、不参加の確認の通知が来ます。勿論「参加させて頂きます」の返事はだします。合気道小林道場は個人道場で唯一演武面全5面での演武が出来る様に提供して頂いております。参加者は3月25日までに各道場の指導者に申し出れば全日本演武会のプログラムに自分の名前が掲載されます。毎回150名~200名が参加していまので宜しく出場お願いします。
私は1960年、新宿山野ホールで行われた第1回演武大会から出場を続けています。2012年5月25日に行われた第50回全日本演武大会で50回記念として私、弘明道場長、孫の香穂3名で演武をさせて頂きました。これを最後に全日本演武大会の出場は辞退する事を決意しました。演武会で司会が私の連続50回の演武で引退を皆さん告げました。全日本演個人演武での親子孫3名で演武したのは私達が初めては無いかと思います。
2012,5,31 親子3代での演武
しかし、翌年の第51回の演武会に道主植芝守央先生から私に対する出場の御要請を電話で連絡を受けました。道主の御提案ですので有難くお受けし演武を致しました。昨年も出場の案内がきて演武しまいた。こうなると何歳まで続けられるか一つの楽しみと成っています。私としては、演武の時に座技が出来なく成った時が辞退の目安としています。
自分では第1回から演武を続けていると云っていますが、証拠と云うものが見当たりません。当時はカメラが非常に高価でした。特別なカメラ好きの人しか持っていません。写真を撮った人が道場の壁に張り出してほしい人を募ります。希望者が名前を書いてお金を払い貰っていました。私は小使いが許す限り買っていました。今では当時の写真が貴重に成っています。
でも第1回合気道演武大会の写真を私は一切持っていません。第1回の演武会から出ていると云いますが証拠が一切有りませんでした。しかし多田宏師範が2013年8月号に雑誌「武道」に書かれた「稽古に励む」に第1回演武会のプログラムが掲載されていました。全体の写真ですのであまり注意深く見ませんでした。先日、雑誌の切り抜きを整理していましたら、そのベージが出てきました。よく見ると演武者の名前も読み取る事が出来ました。
プログラム16、 太刀取り、 道場生 三段 小林康男
或る時期から合気道で使い出した名前「小林保雄」では無く、戸籍の「小林康男」として掲載されていました。
プログラムの表題には合気道 演武 次第としか書かれていません。演武会場が本部道場以外の初めての演武大会でした。出場者、出場団体を見ると本部を中心として関東地方のみの出場です。初めは各地の演武者を集めての演武大会という意識は無かったのではないかと私は考えます。1961年の二回目は銀座の朝日新聞ホールでした。この時は朝日新聞が全面的な後援で、新聞で合気道の演武大会開催を何度も告知してくれました。その為に演武会当日入場出来ない人達が多く出ました。先に入場していた大学合気道部員を退席させ、一般の人達を入場させた記憶があります。
その後日は比谷公会堂で演武大会が行われる様になり、地方の合気道修業者を招いての演武会を毎年行うようになりました。1969年4月に合氣道創始者植芝盛平翁先生が入神されました。1970年は翁先生の追悼演武会と云う事で日本武道館を始めて使用し演武大会が行われました。その時は演武面は3面でした。その後は毎年日本武道館開催が通例になりました。
この時は、演武者全員に弁当、プログラムそして記念の手ぬぐいが支給されました。全演武者500名位の時代で合気道小林道場は150名の支給弁当を貰いに行くと、担当の師範から「小林道場は弁当泥棒だ」などと冗談を云われました。演武会で弁当を支給された事を知っている人は今では少ないでしょう。
演武面が三面の時代に、合気道小林道場の出儒者は多すぎて板の間で演武をする様な混雑でした。全日本演武大会の演武面が5面に成った時に小林道場だけはそれまでの実績で、個人道場としては破格の5面を提供されました。演武会は毎年の事です。10年、20年以、30年と稽古を続けている方も沢山います。「今年もかよ」と云わず是非演武会に参加を伏してお願いいたします。
私は1960年、新宿山野ホールで行われた第1回演武大会から出場を続けています。2012年5月25日に行われた第50回全日本演武大会で50回記念として私、弘明道場長、孫の香穂3名で演武をさせて頂きました。これを最後に全日本演武大会の出場は辞退する事を決意しました。演武会で司会が私の連続50回の演武で引退を皆さん告げました。全日本演個人演武での親子孫3名で演武したのは私達が初めては無いかと思います。
2012,5,31 親子3代での演武
しかし、翌年の第51回の演武会に道主植芝守央先生から私に対する出場の御要請を電話で連絡を受けました。道主の御提案ですので有難くお受けし演武を致しました。昨年も出場の案内がきて演武しまいた。こうなると何歳まで続けられるか一つの楽しみと成っています。私としては、演武の時に座技が出来なく成った時が辞退の目安としています。
自分では第1回から演武を続けていると云っていますが、証拠と云うものが見当たりません。当時はカメラが非常に高価でした。特別なカメラ好きの人しか持っていません。写真を撮った人が道場の壁に張り出してほしい人を募ります。希望者が名前を書いてお金を払い貰っていました。私は小使いが許す限り買っていました。今では当時の写真が貴重に成っています。
でも第1回合気道演武大会の写真を私は一切持っていません。第1回の演武会から出ていると云いますが証拠が一切有りませんでした。しかし多田宏師範が2013年8月号に雑誌「武道」に書かれた「稽古に励む」に第1回演武会のプログラムが掲載されていました。全体の写真ですのであまり注意深く見ませんでした。先日、雑誌の切り抜きを整理していましたら、そのベージが出てきました。よく見ると演武者の名前も読み取る事が出来ました。
プログラム16、 太刀取り、 道場生 三段 小林康男
或る時期から合気道で使い出した名前「小林保雄」では無く、戸籍の「小林康男」として掲載されていました。
プログラムの表題には合気道 演武 次第としか書かれていません。演武会場が本部道場以外の初めての演武大会でした。出場者、出場団体を見ると本部を中心として関東地方のみの出場です。初めは各地の演武者を集めての演武大会という意識は無かったのではないかと私は考えます。1961年の二回目は銀座の朝日新聞ホールでした。この時は朝日新聞が全面的な後援で、新聞で合気道の演武大会開催を何度も告知してくれました。その為に演武会当日入場出来ない人達が多く出ました。先に入場していた大学合気道部員を退席させ、一般の人達を入場させた記憶があります。
その後日は比谷公会堂で演武大会が行われる様になり、地方の合気道修業者を招いての演武会を毎年行うようになりました。1969年4月に合氣道創始者植芝盛平翁先生が入神されました。1970年は翁先生の追悼演武会と云う事で日本武道館を始めて使用し演武大会が行われました。その時は演武面は3面でした。その後は毎年日本武道館開催が通例になりました。
この時は、演武者全員に弁当、プログラムそして記念の手ぬぐいが支給されました。全演武者500名位の時代で合気道小林道場は150名の支給弁当を貰いに行くと、担当の師範から「小林道場は弁当泥棒だ」などと冗談を云われました。演武会で弁当を支給された事を知っている人は今では少ないでしょう。
演武面が三面の時代に、合気道小林道場の出儒者は多すぎて板の間で演武をする様な混雑でした。全日本演武大会の演武面が5面に成った時に小林道場だけはそれまでの実績で、個人道場としては破格の5面を提供されました。演武会は毎年の事です。10年、20年以、30年と稽古を続けている方も沢山います。「今年もかよ」と云わず是非演武会に参加を伏してお願いいたします。
by shihan_aikido
| 2015-03-19 16:25