2015年 05月 03日
ドイツ合気会50周年記念講習会 |
2015年4月3日~6日のドイツ合気会50周年記念講習会に小林道場関系では私と女神様、弘明道場長と3名で参加してきました。ドイツで日本人の一番多いい町ジュッセルドルフから車で1時間半のミュンスターと云う大学の町です。人口30万人で8割が大学生か大学関係者です。その町のサッカークラブの体育館を借り、全目にビニールの畳を敷き詰めていました。
集まったのはドイツ全土のクラブ、ヨーロッパ各国、ロシアそして日本からは私達と研心会、畑山道場の畑山師範夫妻、仙台の神武錬成塾白川勝敏師範その門下生20名です。その数、男女750名です。指導する先生方は主催者のドイツ合気会、浅井勝昭師範、多田塾、多田宏師範、本部道場、宮本鶴蔵師範、研心会、畑山憲吾師範、ブラジル、西田まこと師範、そして私が担当しました。各先生方の指導は一回で稽古時間は2時間半でした。
写真:旧本部道場での総師範と浅井先生(右端)
私と浅井勝昭師範との関係は昭和30年(1955年)遡ります。浅井師範が中学生で4月1日に入門、私が4月末入門しました。約一ヵ月先輩です。稽古では大学生と中学生で体力の違いで私は彼をよく泣かせたりしました。自宅が本部道場の玄関を出た前の家です。中学、高校と稽古を続け明治大学に入学してくれました。当然、私が創設した明治大学合気道部に2段の新入部員として入部してくれました。幹部学生よりも段が上で強かったです。
明大合気道部発展に貢献してくれて卒業、証券会社に就職しました。2年後ドイツ派遣の予定者が辞退した為に二代道主植芝吉祥丸先生に要請されました。1965年に自費で今回講習会をしたミュンスターの町にきて、ドイツで始めて合気道普及の第一歩を踏み出されました。柔道場を借りて合気道の普及に乗り出しましたが、ドイツ柔道連盟が合気道を柔道連盟の傘下に入る様命令してきました。浅井師範は日本では柔道も合気道も武道として同列と拒否しました。ドイツ柔道連盟は浅井師範の柔道場使用に禁止命令をだしました。稽古する場がなく苦難の道を歩む事に成りました。
写真:ドイツ初訪問の時にバーで浅井先生と一緒に
お金が無くジャガイモやクスクス(小麦粉からつくられる粒上の食糧、北アフリカ、中東の食べ物)で飢えをしのいだ時期も有りました。彼の不屈の精神と合気道の良さを理解してくれる人がドイツ人の中にも徐々に広がりました。
浅井師範がドイツに合氣道を普及しだして12年後、私は1977年7月末にジュッセルドルフの彼の道場を尋ねた時は100畳の立派な合気道専門道場を経営したいました。
以上の様事でドイツ合気会10周年講習会には外部から人を呼べる様な状態では無く私は参加していません。その後、合気道小林道場の指導部に在籍していた畑山憲吾師範をドイツ合気会の指導員として2年間派遣ドイツ合気会と合気道小林道場の関係も強化されました。ドイツ合気会20周年、30周年は二代道主植芝吉祥丸先生と一緒に私も参加しました。40周年は三代道主植芝守央先生と参加、そして今回の50周年記念講習会に成ります。
写真:ドイツ合気会30周年 二代目吉祥丸道主と
私の指導は5日の日曜日の午後15時~17時半でした。道場とホテルが車での移動ですので、私は他の先生方の指導は一切見ていません。先生方の話では750名と云う多くの人達の稽古では受け身でぶつかると危険なので投げない稽古をしたとの話をしていました。私としては2時間半の合気道の稽古で投げない稽古は理解不能です。私は普段道場で稽古の様にする事にしました。当たり前準備体操、全員での受け身の後に基本技を相手の受けを取ながら指導しました。勿論一組4、5名組での円く成った係り稽古です。多少の技の説明は通訳が附きましたので話しました。稽古は何の支障も有りませんでした。杖の腰投げまでしました。体格が良くても背の高い人達は背が低く85kgの私を足を深く曲げますので腰に乗せられず潰れたりしていました。
2時間半の稽古です。1時間半過ぎた時、休憩を入れる意味で話をして通訳してもらいました。私が合気道を始めて60年、浅井師範が1ヵ月先輩で20、30、40、周年記念に来ていて今年の50周年も皆さんと稽古出来て嬉しく、楽しいです。10年後の60周年記念の講習会に私は89才になるが必ずきて皆さんと一緒に稽古すると云いました。稽古が終わり退場の時、私に対する拍手が鳴りやまず、最後には畳を叩いて750名が賞賛してくれました。感激しました。
写真:ドイツ合気会40周年 三代目守央道主と
勿論、行事としては道場での歓迎会、演武会そして祝賀会がありましたが長くなりますので割愛させていただきます。写真が手に入りましたら掲載します。
今回のドイツ合気会50周年での稽古、演武会等の記念行事は撮影禁止ですので現在は写真が一切有りません。後日ドイツ合気会から記念DVD,写真集が送られてきます。その時まで待って下さい。
集まったのはドイツ全土のクラブ、ヨーロッパ各国、ロシアそして日本からは私達と研心会、畑山道場の畑山師範夫妻、仙台の神武錬成塾白川勝敏師範その門下生20名です。その数、男女750名です。指導する先生方は主催者のドイツ合気会、浅井勝昭師範、多田塾、多田宏師範、本部道場、宮本鶴蔵師範、研心会、畑山憲吾師範、ブラジル、西田まこと師範、そして私が担当しました。各先生方の指導は一回で稽古時間は2時間半でした。
写真:旧本部道場での総師範と浅井先生(右端)
私と浅井勝昭師範との関係は昭和30年(1955年)遡ります。浅井師範が中学生で4月1日に入門、私が4月末入門しました。約一ヵ月先輩です。稽古では大学生と中学生で体力の違いで私は彼をよく泣かせたりしました。自宅が本部道場の玄関を出た前の家です。中学、高校と稽古を続け明治大学に入学してくれました。当然、私が創設した明治大学合気道部に2段の新入部員として入部してくれました。幹部学生よりも段が上で強かったです。
明大合気道部発展に貢献してくれて卒業、証券会社に就職しました。2年後ドイツ派遣の予定者が辞退した為に二代道主植芝吉祥丸先生に要請されました。1965年に自費で今回講習会をしたミュンスターの町にきて、ドイツで始めて合気道普及の第一歩を踏み出されました。柔道場を借りて合気道の普及に乗り出しましたが、ドイツ柔道連盟が合気道を柔道連盟の傘下に入る様命令してきました。浅井師範は日本では柔道も合気道も武道として同列と拒否しました。ドイツ柔道連盟は浅井師範の柔道場使用に禁止命令をだしました。稽古する場がなく苦難の道を歩む事に成りました。
写真:ドイツ初訪問の時にバーで浅井先生と一緒に
お金が無くジャガイモやクスクス(小麦粉からつくられる粒上の食糧、北アフリカ、中東の食べ物)で飢えをしのいだ時期も有りました。彼の不屈の精神と合気道の良さを理解してくれる人がドイツ人の中にも徐々に広がりました。
浅井師範がドイツに合氣道を普及しだして12年後、私は1977年7月末にジュッセルドルフの彼の道場を尋ねた時は100畳の立派な合気道専門道場を経営したいました。
以上の様事でドイツ合気会10周年講習会には外部から人を呼べる様な状態では無く私は参加していません。その後、合気道小林道場の指導部に在籍していた畑山憲吾師範をドイツ合気会の指導員として2年間派遣ドイツ合気会と合気道小林道場の関係も強化されました。ドイツ合気会20周年、30周年は二代道主植芝吉祥丸先生と一緒に私も参加しました。40周年は三代道主植芝守央先生と参加、そして今回の50周年記念講習会に成ります。
写真:ドイツ合気会30周年 二代目吉祥丸道主と
私の指導は5日の日曜日の午後15時~17時半でした。道場とホテルが車での移動ですので、私は他の先生方の指導は一切見ていません。先生方の話では750名と云う多くの人達の稽古では受け身でぶつかると危険なので投げない稽古をしたとの話をしていました。私としては2時間半の合気道の稽古で投げない稽古は理解不能です。私は普段道場で稽古の様にする事にしました。当たり前準備体操、全員での受け身の後に基本技を相手の受けを取ながら指導しました。勿論一組4、5名組での円く成った係り稽古です。多少の技の説明は通訳が附きましたので話しました。稽古は何の支障も有りませんでした。杖の腰投げまでしました。体格が良くても背の高い人達は背が低く85kgの私を足を深く曲げますので腰に乗せられず潰れたりしていました。
2時間半の稽古です。1時間半過ぎた時、休憩を入れる意味で話をして通訳してもらいました。私が合気道を始めて60年、浅井師範が1ヵ月先輩で20、30、40、周年記念に来ていて今年の50周年も皆さんと稽古出来て嬉しく、楽しいです。10年後の60周年記念の講習会に私は89才になるが必ずきて皆さんと一緒に稽古すると云いました。稽古が終わり退場の時、私に対する拍手が鳴りやまず、最後には畳を叩いて750名が賞賛してくれました。感激しました。
写真:ドイツ合気会40周年 三代目守央道主と
勿論、行事としては道場での歓迎会、演武会そして祝賀会がありましたが長くなりますので割愛させていただきます。写真が手に入りましたら掲載します。
今回のドイツ合気会50周年での稽古、演武会等の記念行事は撮影禁止ですので現在は写真が一切有りません。後日ドイツ合気会から記念DVD,写真集が送られてきます。その時まで待って下さい。
by shihan_aikido
| 2015-05-03 08:29