2016年 09月 02日
合気道小林道場の海外進出の第一歩はブラジル、リオから |
熱戦を繰り広げたブラジル、リオ、オリンピックも数々のドラマを産み終了しました。
そして、日本は史上最高のメタルを獲得しました。又リオの丘に建つキリスト像、「コルコバード」が一躍世界中に知れ渡りました。
合気道小林道場の海外普及の第一歩はこのリオデジャネイロから始まったのです。私が合気道を始めたのは1955年4月です。当時、東京都庁内に移民課が有り斉藤さんと云う方が稽古に来ていました。道場の20代の若者にブラジルに行かないかと盛んに勧めました。
私より一年上の中谷氏が学校卒業後1960年頃ブラジルに移民して行きました。
1969年に自宅小平市に道場を開き、又内弟子の養成をも始めました。1975年に中谷氏が突然小平道場にきて1週間以内に合気道指導員を永住の目的で派遣を要請されました。
中谷氏はリオで仕事と合気道の指導を始めたが仕事が成功し、合気道指導の時間が取れないので専門指導員の派遣を要請したのです。内弟子第一号の鹿内一民氏がリオ移住を承諾したので、永住ビザを心配しましたが、中谷氏は「アマゾンの奥地から出てきたことにすれば、何とかなるよと」と云います。40年も前の話で結構適当でした。
心配し私も同行し現地の事情を確認することにしました。リオの空港に到着、私は旅行者ですので、税関を通る事が出来ました。鹿内氏は永住するので、電気釜、ラジオ等電気製品を持参していきました。私が2時間外で待っても彼は出てきません。他の人を出迎えに来た合気道本部道場で顔見知りの人に出会いました。2時間も弟子が出て来ないと話すと、「小林さん100ドル持っているか」と聞き、私がお金を渡すと税関の中に入って行きました。10分後には鹿内氏が大きな荷物を抱えて出て来ました。賄賂が効く時代でした。ビザも本当に何とか成りました。
1975年、今から40年前です。羽田空港からアンカレッジ、ニューヨーク、サンファン、リオデジャネイロでした。リオでは稽古は柔道や軍隊の道場を借りて稽古していました。
宿泊したのはリオの海岸の前のビルで、大金持ちお父さんが亡くなり、遺産の管理するだけが仕事の息子の家です。私の止まった部屋には本物のピカソの絵が飾って有りました。
アマゾンのジャングルの中に創った首都ブラジリアでも合気道が広がり始めておりました。次に日系人の多いいサンパウロと回り稽古しました。サンパウロは鍼灸の治療院を開きながら河合禮慎師範が合気道指導をしていました。強烈な個性の持ち主で初期の合気道普及に多大な貢献していいました。サンパウロの野菜の卸市場では日本語が飛び交い日系人の経済に貢献している姿が確認されました。
2週間滞在し、帰途にアメリカ各地で1957年~60年頃に本部道場内弟子に成り、一緒に修行したニューヨーク山田師範、ボストン金井師範、シカゴ藤平明師範、ロス、フランシス高橋師範そしてハワイを50日稽古して回り無事帰国しました。
このブラジル、アメリカ各地の合気道の状況を観察、体験し今後海外での合気道普及、発展の可能性を知りました。そして、翌年に台湾、香港、マカオそしてドイツ、スウェーデンと積極的に海外指導で回ると共に内弟子や小林道場会員も同行を促し交流を重ねました。合気道小林道場グループが海外各国との交流が有るのは上記の様な体験からです。
9月24日、25日の傘寿合宿講習会も多くの国の合気道家が集まってくれます。合気道を通て仲良く、楽しくそして厳しい稽古ができる事を楽しみにしています。
そして、日本は史上最高のメタルを獲得しました。又リオの丘に建つキリスト像、「コルコバード」が一躍世界中に知れ渡りました。
合気道小林道場の海外普及の第一歩はこのリオデジャネイロから始まったのです。私が合気道を始めたのは1955年4月です。当時、東京都庁内に移民課が有り斉藤さんと云う方が稽古に来ていました。道場の20代の若者にブラジルに行かないかと盛んに勧めました。
私より一年上の中谷氏が学校卒業後1960年頃ブラジルに移民して行きました。
1969年に自宅小平市に道場を開き、又内弟子の養成をも始めました。1975年に中谷氏が突然小平道場にきて1週間以内に合気道指導員を永住の目的で派遣を要請されました。
中谷氏はリオで仕事と合気道の指導を始めたが仕事が成功し、合気道指導の時間が取れないので専門指導員の派遣を要請したのです。内弟子第一号の鹿内一民氏がリオ移住を承諾したので、永住ビザを心配しましたが、中谷氏は「アマゾンの奥地から出てきたことにすれば、何とかなるよと」と云います。40年も前の話で結構適当でした。
心配し私も同行し現地の事情を確認することにしました。リオの空港に到着、私は旅行者ですので、税関を通る事が出来ました。鹿内氏は永住するので、電気釜、ラジオ等電気製品を持参していきました。私が2時間外で待っても彼は出てきません。他の人を出迎えに来た合気道本部道場で顔見知りの人に出会いました。2時間も弟子が出て来ないと話すと、「小林さん100ドル持っているか」と聞き、私がお金を渡すと税関の中に入って行きました。10分後には鹿内氏が大きな荷物を抱えて出て来ました。賄賂が効く時代でした。ビザも本当に何とか成りました。
1975年、今から40年前です。羽田空港からアンカレッジ、ニューヨーク、サンファン、リオデジャネイロでした。リオでは稽古は柔道や軍隊の道場を借りて稽古していました。
宿泊したのはリオの海岸の前のビルで、大金持ちお父さんが亡くなり、遺産の管理するだけが仕事の息子の家です。私の止まった部屋には本物のピカソの絵が飾って有りました。
アマゾンのジャングルの中に創った首都ブラジリアでも合気道が広がり始めておりました。次に日系人の多いいサンパウロと回り稽古しました。サンパウロは鍼灸の治療院を開きながら河合禮慎師範が合気道指導をしていました。強烈な個性の持ち主で初期の合気道普及に多大な貢献していいました。サンパウロの野菜の卸市場では日本語が飛び交い日系人の経済に貢献している姿が確認されました。
2週間滞在し、帰途にアメリカ各地で1957年~60年頃に本部道場内弟子に成り、一緒に修行したニューヨーク山田師範、ボストン金井師範、シカゴ藤平明師範、ロス、フランシス高橋師範そしてハワイを50日稽古して回り無事帰国しました。
このブラジル、アメリカ各地の合気道の状況を観察、体験し今後海外での合気道普及、発展の可能性を知りました。そして、翌年に台湾、香港、マカオそしてドイツ、スウェーデンと積極的に海外指導で回ると共に内弟子や小林道場会員も同行を促し交流を重ねました。合気道小林道場グループが海外各国との交流が有るのは上記の様な体験からです。
9月24日、25日の傘寿合宿講習会も多くの国の合気道家が集まってくれます。合気道を通て仲良く、楽しくそして厳しい稽古ができる事を楽しみにしています。
by shihan_aikido
| 2016-09-02 15:36