「奇才」吉田接骨医 |
私が吉田接骨院に治療に行ったのは57,8年前です。本部道場で稽古していた20歳の頃でした。稽古中鎖骨を怪我した時に椎名町の「吉田接骨院」に行く様にと稽古人から言われました。私が治療に行き治療室に入るといきなり怒鳴られました。「お前は植芝の弟子か、武道家は部屋に入る時は半身で入れ、やり直し」と云われ外に出て治療室に入り直しです。吉田先生は渋川流の柔術を学ばれていました。
治療室に入ると「受身」の一言です。鎖骨を骨折して来ているのでそれは無いと思いました。痛くない反対側で受け身をしました。「やり直し」の又一言だけです。痛い方で受け身すると「よし分かった」いきなり私の手を取り上げてグルットと回し、治ったから帰れとだけ言われました。それで不思議と治っているのです。本部道場での稽古は私達も若かったのでかなり激しい稽古をしましたので怪我もよくしました。其の度に「吉田接骨院」に通いました。
全国から患者が来て列をなしています。治療まで待ち時間が有ります。私は2頭いました真っ白な大きな秋田犬を世話し、庭の掃除をして待っていました。不思議と人に懐かない2頭の秋田犬が私になつきました。或る時、庭にいると「小林、このバナナを食べて良い」と云われました。縁側を見ると一房7,8本有りました。私は全部食べないと怒られると思い、苦しかったですが全部食べてしまいました。
暫くして見えた吉田先生が「バナナ、どうした?」と尋ねました。私は「全部たべました」と答えると先生は呆れた声で「お前は本当にバカなやつだな」との一言でした。秋田犬がなついたのとバナナを沢山たべたので、それ以来気に入られたのか私が行くと、列をなしている患者に関係なく私を治療室に呼び入れ柔術の技を私に掛け、武道談義をしてくれました。怪我の治療はどうでもよいとの感じでした。私は怪我した内弟子や稽古人がいると、「吉田接骨医」にいっしに付いて行くように成りました。
患者は毎日列をなしています。治療費に保険は有りません。「吉田先生」に云わせると「儂が教えた弟子たちが創った保険制度など従えるか」と云っていました。患者は箱の中に自分が思うお金を入れて行きます。全国から見てもらいたくて来ます。私は見てもらう患者間で暗黙の料金が有ったと思います。「植芝の弟子のお前達はいらない」お金は払ったことは有りませんでした。植芝翁先生とは面識が有ったのか、無かったか全然分かりません。翁先生が亡くなられた時に本部道場までお焼香に来られましたので尊敬されておられたと思います。ある日、突然患者を一切見なくなりました。巨人軍の専属医師に成ったのです。
偶然ですが私は巨人軍のコーチ荒川博氏を本部道場で個人稽古をしていました。荒川コーチは合気道の「気」が野球に何かたたないかと考え本部道場に入門したのです。植芝吉祥丸道場長が「巨人軍の荒川博コーチです、小林、お前が担当で個人稽古をしなさい」と云われました。水曜日10時から毎週一時間稽古を始めました。荒川博氏は王貞治選手を早実高校時代から目を掛け、合気道をヒントに一本足打法を考え、ホームラン王にした方です。荒川コーチは道場に王選手、広岡選手、長嶋選手達を連れてきました。藤平光一師範部長の「気」の理論など話を聞きにこられました。実際の稽古は私が受け持ちです。稽古着をきて合気道を実際稽古したのは、広岡選手ぐらいでした。
巨人軍の選手が怪我をした時やシーズンオフの時に体調管理で「吉田先生」の処に出かけて行きます。私も荒川コーチ、王、長嶋、広岡、山内選手等と一緒に「吉田先生」に付いて行きました。不思議と私は「吉田先生」と縁が有りました。王選手をベットに寝かせて「吉田先生」が上に跨りいきなり脇腹をくすぐります。王選手が全身をふるわせ笑いだします。「吉田先生」はいきなり背中を押し「ヨーシ、これで治った」の一言です。長嶋選手は足の調子が悪いと云うとベットの上から飛び降りさせました。当然痛くない方の足で飛び降ります。やり直しです。仕方なく痛くない方の足で飛び降ります。その姿を見ていて「吉田先生」は「分かった足を出せ」と云い治療をします。
又山内選手の顔を見て「お前の顔は歪でいる」と云いました。山内選手は「デットボールを顔に喰った事が有ります。」「ヨーシ、口を開けろ」と云いいきなり、口の中に手を入れました。頬が膨らみ吉田先生は「いい男になった」と皆で大笑いしました。名前は忘れましたが、黒人の選手の6歳ぐらいの息子が足を骨折して診察室に来ました。椅子に座らせるといきなり頬っぺたを平手で叩きました。子供は勿論、親や私達も唖然としました。子供は大声で泣きだしました。その間、足を素早くいじり、包帯を巻きました。親には足のここが骨折し、この部分にひびが入っていると簡単に説明しました。野球選手の親は外科医がレントゲンで見たと同じ事を云ったと驚きの声を上げていました。「吉田先生」曰く、「このくらいの事が分からないで治療できるか」の一言でした。子供を叩いたのは怖がって身体に力が入っているのを抜く為だそうです。しかし、子供にはもう少し優しくしても良いのではと思いました。
巨人軍の専属医に成った「吉田接骨医」は一般人を一切診察しなく成りました。それでも、診察受けたい人々で門前列をなしています。私が「吉田接骨院」に出入りしている事を何処で調べるのか分かりませんが、私の処に「吉田接骨院」紹介してほしいと電話が掛かってきます。私が「吉田先生」に電話を掛けると不思議と吉田先生は「すぐ連れて来い」と云って診てくれました。私も忙しいので親しい人からの電話でないと同行外断る様にしました。
どうしても断れない時もあります。親しい知人を介して自動車の営業をしている人から電話が有りました。膝に大怪我し外科でギブス固定され3日後に手術との事です。リバビリを兼ねると3カ月入院と云われました。3カ月も休むと営業なので生活できないとの事でした。どうしても「吉田接骨院」で治療を受けたいとの事でした。私は同情して彼に「吉田先生」に云われた事を何でも実行する事を約束させ、先生に電話しました。直ぐ来いとの返事です。
私は「吉田接骨医」の門の前でギブスを外し、治療室に連れて行きました。
「吉田先生」は正座の一言です。膝が曲がらない患者ですので、私は相手をうつ伏せにして激痛で苦しみ脂汗を流して苦しむのを1時間ぐらい掛けて両手が膝に乗るまで正座の前かがみの姿勢にしました。「吉田先生」は「小林、上から肩を押せ」と云われました。云われるままに私は患者の両肩を押しました。「うーん」と唸って患者は気絶して倒れました。
「小林、活を入れろ」と怒鳴られました。私は柔道をしていましたので、寝技で締め落とした相手に活を入れた事は何度も有ります。この様な状態で気を失った人は初めてで戸惑っていました。正座している私の尾骶骨をいきなり蹴とばしました。私は思わず飛び上がりました。「吉田先生」は患者にも活をいれ気が付いた相手の膝に手を掛け少しいじりまわし包帯をしました。「もう帰れ」の一言です。患者は足を引きずりますが、駅の階段を歩いていました。驚きの一言です。お金は受け取りませんので当時ウイスキーのジョニ黒が貴重品で1万円ぐらいしました。お礼とし何時も「ジョニ黒」を部屋の片隅に置くのが礼儀でした。ある時は、二代道主植芝吉祥丸先生が鎖骨を怪我された時にも、私に吉祥丸道主から直接電話が有りました。「吉田接骨院」連れていけとの事でした。お供をして治るまで同行した思い出が有ります。
世の中には本当に常識では考えられないような不思議な人がいます。植芝盛平翁先生や吉田接骨医又後日、思い出を書きますが、日本人で満州の馬賊王になった小日向白朗氏にも親しくして頂きました。これも植芝盛平翁先生に師事し翁先生の関係から、偉大な先生方に親しく指導を受けた事の幸せを深く感じています。