日本人馬賊王、小白竜 小日向白朗氏 |
太平洋戦争前は現在中国の東北部を満州と云いました。その頃、中国では政治が混乱して、各地に軍閥が割拠し覇権を争っていました。農民や町人は彼らの略奪におびえやむなく自警団を雇って生命、財産を守りました。その自警団を日本では、馬賊と云いました。
写真:翁先生の右隣が小日向白朗氏
日本軍は日露戦争で親日馬賊としての満州義軍を利用しましたが,その後も,特務機関員を馬賊の頭目にしたてあげるなど,大陸侵略の正面舞台となった満蒙の地においていろいろな方法で彼らを利用しました。明治から昭和の始めの日本の若い人達は馬賊に憧れ満州に行き活躍したいと思う若者が多く又渡満したが活躍できず満州浪人と云われた人達も沢山いました。
下記の様な歌もあります。
馬賊の歌
俺も行くから君も行け、 御国(みくに)を出てから十余年
狭い日本にゃ住みあいた、 ・・・・・・今じゃ満州の大馬賊
海の彼方に支那がある 亜細亜高嶺の間から ・・・・
支那にゃ四億の民が待つ 繰り出す手下五千人
小日向白朗氏は新潟で生まれ、わんぱくな少年時代を過ごしました。中国大陸に憧れ、尋常小学校卒業後渡航費を稼ごうと上京し呉服屋丁稚に成りました。その後屑鉄屋に成り17歳の時、屑鉄商売で大儲けをして大陸に渡りました。旅行中、馬賊に捕まり奴隷のような下働きさせられた。この時の馬賊が部落襲撃時に決死隊に志願して大手柄をたてました。その後も大活躍し、人望も有り日本人として馬賊王になりました。
写真を見てください。中央が小日向白朗氏で隣が奥さんの後ろに私も白いシャッツ姿でいます。学生服は慶応大学合気道部の学生達です。学生達の名前は国分、竹中、大平君達です。国分は酒、食料品の総合商社、竹中は竹中工務店で建設会社です。皆さんが知っている日本の超一流企業創業者の血筋の人達です。そして大平君は1978年~1980年内閣総理大臣、大平正芳氏の息子さんです。昭和30年代初めに彼らは合気道を進んで習い熱心に稽古しました。当時、自家用車で道場に通っていました。一般の人が自家用車を持つなど夢にも考えられない時代です。
何故彼らが合気道本部道場に通って来ていたかは、当時師範部長でした藤光一先生が慶応大学出身で合気道部を創設しその合気道部員でした。当時はまだ学校内では道場が思う様に確保出来ず本部道場に来て稽古していました。私も修行しましたが藤平師範部長が修業した天風会、一九会等の修養団体に藤平師範部長の勧めで参加したのです。
小日向白朗氏の集まりにも興味持ち集まってきました。何故若い人たちが小日向白朗氏の話を聞きに来たかと云うと、馬賊時代の活躍の話、合気道創始者植芝盛平翁先生が大本教、出口王仁三郎教祖と満蒙に新国家建設で行かれた時、張作霖に捕まり処刑寸前の時、解放に奔走した話又昭和30年時代の右翼の親玉として政界の裏話なで聞けたからです。当時の日本が戦後10年、まだ食べ物も事欠く時代でした。しかし、欧米に追い付き、追い越せの掛け声で皆一生懸命時代です。私ら合気道を習いながら、戦前、戦争中に活躍した先輩達の夢物語を聞き心踊らされたものです。
そして、ある日、当時本部道場長でした植芝吉祥丸先生が私に「小日向白朗氏が小林、お前を秘書にしたいと申し出が有ったが、その場で断った」と聞かされました。吉田接骨医、小日向白朗氏等変わった人達に声を掛けられました。
断らなければ私も又違った道に進み合気道小林道場の会員の皆さんと知り合えなかったでしょう。私としては傘寿の現在まで会員の皆さんと合気道の稽古が出来ている事を心から感謝し人生を楽しんでいます。
追伸 10年位前に明大合気道部OBが株式会社、国分に入社し、会長に面接した時に掲載の写真を見せたたところ小林監督の事も覚えていて懐かしがっていたと聞きました。