2017年 05月 27日
合気ニュース編集長 スタンレー・プランニング氏逝去 |
3月始め、スウェーデン、ストックホルム弥栄(いやさか)道場で指導している時に古い会員が合気ニュース、スタンレー、プランニング氏亡くなった事を告げられました。私は又合気道発展に貢献した仲間の一人を無くした事を実感しました。スタンレー、プランニング氏はアメリカ人で有りながら合気道創始者、植芝盛平翁先生の事を調査、研究しその報告を「合気ニュース」と云う雑誌を発行する事により日本国内は基より、アメリカを中心に海外に合気道のニュースを発信しました。現代のようなネット、情報社会で無かった当時を思えば「合気ニュース」が無ければ合気道の海外普及が何年も遅れたと私は思います。彼の訃報を聞き私は非常に残念に思いました。享年71歳でした。ご冥福をお祈り申し上げます。

スタンレー、プランニング氏はアメリカ、カルホルニアで高校生時代に合気道を始めました。1962年に初段を取得しました。その後合気道の指導を始めました。1974年に英文の「AIKI NEWS」を創刊しました。そして、スタンレー氏は1969年 9月に来日し本部道場で稽古すると共に、合気道創始者植芝盛平翁先生の事を調べました。翁先生は同年4月26日に亡くなられており大した資料を得ることが出来ませんでした。失望している時に本部道場指導部員でした私の本部道場の木曜日3時からの私の指導稽古時間に参加してくれました。その時に翁先生の事を話して下さいと私は頼まれました。
私は1969年4月から本部道場指導部に席を置きながら東京の郊外小平市の自宅に合気道小林道場開設、植芝吉祥丸二代道主の許可を受け三多摩に合気道の普及に乗り出していました。小平道場の稽古にスタンレー氏を連れて来て一緒に稽古すると共に、稽古後植芝盛平翁先生のアルバムを見せました。彼は今までこの様な翁先生のアルバムを見た事が無いと大いに驚いていました。その中の一枚、植芝盛平翁先生の杖を構えた写真を一枚挙げました。大いに感激していました。これをヒントに翁先生の写真収集を思いついたと後日書いています。

1977年に日本に移住し、「合気ニュース」を日本語、英語のバイリンガルで発刊又植芝盛平翁の写真、映像資料を発掘、保存そして編集して発売しました。植芝盛平翁先生が学ばれた古流の柔術や大東流柔術の記事まで手を広げて行きました。此の様に日本のみならず全世界に合気道に残して功績は図り知れないも物が有ると私は実感します。合気道小林道場も子供クラスを含めて1,000名で開催された小林道場20周年演武会の時にその演武をVHSテーブで記録発売してもらい多くの会員が記念に買いました。
合気道は植芝盛平翁先生が創始され、二代道主植芝吉祥丸先生に引き継がれる合気会と弟子達が分かれた幾つかの組織が有りました。当時の日本武道界独特の確執で、この弟子達の組織間の交流は殆ど有りませんでした。スタンレー氏は薄れがちな弟子達の交流を考え、色々な師範を集めた第一回友好演武会を企画しました。これは革命的な出来事でした。各師範に出場依頼が来ました。私は合気道小林道場道場長として出場すると返事をしました。しかし、この企画に不快を示す人がいて、毎日の様に出場辞を退するように私に電話が有りました。この圧力により、一度出場を承諾した各師範も出場辞退をスタンレー氏に伝えたそうです。
スタンレー氏は開催ホールを予約、そしてチケットの販売もしていました。開催出来なければ金銭的な莫大な損失と信用を失います。彼は困惑しながら私に「友好演武会に出場されますか?」と電話が有りました。私は「一度約束した以上友好演武会出場します」と返事しました。私の出場確約でスタンレー氏は各師範を再説得して出場を承諾させました。
翁先生を偲ぶ「第一回友好演武会」は1985年4月7日 江戸川区総合文化センター・大ホールで開催されました。出場者は小林保雄、五月女貢、黒岩洋志男、西尾昭二、斎藤守弘、砂泊誠秀各師範でした。その後友好演武会は7回まで開かれました。そして現在の情報化時代に入り合気道が世界的に広がりを見せています。
スタンレー・プランニング氏は英文ですが私の事を
YASUO KOBAYASHI : A MAN OF HIS WORD
で書かれています。ネットで調べて下さい。

スタンレー、プランニング氏はアメリカ、カルホルニアで高校生時代に合気道を始めました。1962年に初段を取得しました。その後合気道の指導を始めました。1974年に英文の「AIKI NEWS」を創刊しました。そして、スタンレー氏は1969年 9月に来日し本部道場で稽古すると共に、合気道創始者植芝盛平翁先生の事を調べました。翁先生は同年4月26日に亡くなられており大した資料を得ることが出来ませんでした。失望している時に本部道場指導部員でした私の本部道場の木曜日3時からの私の指導稽古時間に参加してくれました。その時に翁先生の事を話して下さいと私は頼まれました。
私は1969年4月から本部道場指導部に席を置きながら東京の郊外小平市の自宅に合気道小林道場開設、植芝吉祥丸二代道主の許可を受け三多摩に合気道の普及に乗り出していました。小平道場の稽古にスタンレー氏を連れて来て一緒に稽古すると共に、稽古後植芝盛平翁先生のアルバムを見せました。彼は今までこの様な翁先生のアルバムを見た事が無いと大いに驚いていました。その中の一枚、植芝盛平翁先生の杖を構えた写真を一枚挙げました。大いに感激していました。これをヒントに翁先生の写真収集を思いついたと後日書いています。

1977年に日本に移住し、「合気ニュース」を日本語、英語のバイリンガルで発刊又植芝盛平翁の写真、映像資料を発掘、保存そして編集して発売しました。植芝盛平翁先生が学ばれた古流の柔術や大東流柔術の記事まで手を広げて行きました。此の様に日本のみならず全世界に合気道に残して功績は図り知れないも物が有ると私は実感します。合気道小林道場も子供クラスを含めて1,000名で開催された小林道場20周年演武会の時にその演武をVHSテーブで記録発売してもらい多くの会員が記念に買いました。
合気道は植芝盛平翁先生が創始され、二代道主植芝吉祥丸先生に引き継がれる合気会と弟子達が分かれた幾つかの組織が有りました。当時の日本武道界独特の確執で、この弟子達の組織間の交流は殆ど有りませんでした。スタンレー氏は薄れがちな弟子達の交流を考え、色々な師範を集めた第一回友好演武会を企画しました。これは革命的な出来事でした。各師範に出場依頼が来ました。私は合気道小林道場道場長として出場すると返事をしました。しかし、この企画に不快を示す人がいて、毎日の様に出場辞を退するように私に電話が有りました。この圧力により、一度出場を承諾した各師範も出場辞退をスタンレー氏に伝えたそうです。
スタンレー氏は開催ホールを予約、そしてチケットの販売もしていました。開催出来なければ金銭的な莫大な損失と信用を失います。彼は困惑しながら私に「友好演武会に出場されますか?」と電話が有りました。私は「一度約束した以上友好演武会出場します」と返事しました。私の出場確約でスタンレー氏は各師範を再説得して出場を承諾させました。
翁先生を偲ぶ「第一回友好演武会」は1985年4月7日 江戸川区総合文化センター・大ホールで開催されました。出場者は小林保雄、五月女貢、黒岩洋志男、西尾昭二、斎藤守弘、砂泊誠秀各師範でした。その後友好演武会は7回まで開かれました。そして現在の情報化時代に入り合気道が世界的に広がりを見せています。
スタンレー・プランニング氏は英文ですが私の事を
YASUO KOBAYASHI : A MAN OF HIS WORD
で書かれています。ネットで調べて下さい。
by shihan_aikido
| 2017-05-27 09:33