2017年 11月 01日
昭和30年初め頃の本部道場内弟子達 |
私は62年前1955年4月に本部道場に入門後、大学の単位取得の最低時間以外はアルバイトも行わず本部道場に入り浸りに成りました。その理由は当時の内弟子達は戦後まだ10年、東京が戦災で住宅不足で大学生達が下宿代わりに住み込んで稽古又朝晩稽古しながら道場から勤めに通っている人達が5,6人いました。この先輩達は日本全国各地からきていますので、都心育ちの私には生活感、物事の考え方の違いが私には新鮮に思えてなりませんでした。
稽古はその内弟子達中心に一般稽古人が10人もくれば今日の稽古は人数が多いんと云われた時代です。当時の本部道場植芝吉祥丸先生は合気道では生活出来ず証券会社に勤めていました。何せ合気道は戦前軍関係者が中心の稽古で柔道、空手そして剣道の様に一般的には普及していません。一般公開は1955年8月に日本橋の高島屋の屋上で戦後初めて合気道は一般に公開されました。2年後に朝日新聞が主催した朝日ホールでの演武会は会場に入りきれないくらい以来、新聞、週刊誌等に新しい試合の無い武道として取り上げられるように成りました。
その掲載された雑誌を送ってくれますが、内弟子達は一読すると殆ど処分していました。私は気が付いた時は許可を得て自宅に持ちかえり保存しておきました。アメリカの武道の雑誌ブラックベルトは1966年頃の合気道本部道場の内弟子達の生活を取り上げています。 雑誌の内容を写真で皆さんにみせます。特に内弟子達の給料は1000円と書いてあります。大卒の初任給が10000円の時代です。1/10です。
当時の内弟子達は合気道が好きで、好きで内弟子としてどんな厳しい生活でも厭わない人達の集まりでした。 私が入門してから3年後です。イギリスに合気道普した某師範は、突然、学校卒業後の5月頃に本部道場に来て植芝吉祥丸道場長に内弟子にして下いと来ました。見も知らぬ20歳前の若者です。植芝吉祥丸道場長は当然駄目だと断りました。翌日から朝6時から本部道場の玄関前に座り込みました。勿論雨の日も風の日もです。1か月過ぎました。当時の道場長長補佐の大沢喜三郎師範(現在本部大沢隼人師範の父)が植芝吉祥丸道場に助言して下さり内弟子が許可されました。
その1年後内弟子希望の青年が又来ました。勿論断られました。その青年は朝6時に本部道場にきて掃除、稽古し夜の最終稽古後皆が帰る迄道場にいて掃除や雑用をしました。又翌日朝6時に道場に来て一日いて帰るのです。それを一か月続けました。一か月後大沢師範の助言で内弟子許可が出ました。彼は内弟子許可が出た翌日から全然稽古に来なくなりました。私達内弟子達は「不思議な奴だな、住み込み許可がでたら道場に全然来なくなった」と不思議がりました。一か月後再度現れた時に来なかった理由を聞くと、安心し気が緩み風邪を引き寝込んでいたそうです。後で分かった事ですが二人は中学生時代の同級生でした。
この様な内弟子達の集まりでしたので、多田宏師範の座り技1000本、腹筋1時間等の厳しい稽古に耐えました。基本の技の関節技等を強く捻られても痛いと云わず我慢比べもしました。私は内弟子の中でも一番身体が小さかったですが非常にタフで疲れが早く治る体質でした。受身で素早く立ち技を掛け相手を疲れさす作戦で相手に嫌がられました。
激しい稽古をして10年、昭和39年(1964)年東京オリンピックが10月10日開催されました。柔道の重量級で神永選手がヘーシング選手に敗れました。これにより、日本の武道が世界中に注目されました。それと共に合気道も関心が高まり本部道場に指導者の派遣要請がきました。日本では合気道で生活できないので本部道場内弟子達はフランス、イギリスそしてアメリカに旅立っていきました。
私にはビルマ、現在のミャンマーの軍人に合気道を教える要請が来ました。日本政府は東南アジア各国に戦争の賠償として多額のお金を払っていました。その賠償金で先任として山口清吾師範が派遣されておりその助士としての派遣です。しかし三か月後ミャンマー政府がクウデターで政権が変わりました。ビルマ軍から6名が合気道と柔道を学ぶために派遣されてきました。その軍人達の面倒をみました。
この事で私は神様が私を日本に居るように指示したと感じました。海外在住で合気道の指導者としては行かない決心をしました。そして小平の自宅に道場を開き現在の合気道小林道場が在り、皆さんと楽しい稽古出ています。私始め小林道場の指導部員が短期で海外し指導に行っています。「結び基金」を会員の皆さんの協力により設けて、海外から来る人の援助や費用の出せない国の合気道道場に指導員を派遣し合気道普及に邁進しています。
そして、来年は合気道小林道場創立50記念行事を9月に京都で行う予定です。皆さんの漁協力宜しくお願い致します。
稽古はその内弟子達中心に一般稽古人が10人もくれば今日の稽古は人数が多いんと云われた時代です。当時の本部道場植芝吉祥丸先生は合気道では生活出来ず証券会社に勤めていました。何せ合気道は戦前軍関係者が中心の稽古で柔道、空手そして剣道の様に一般的には普及していません。一般公開は1955年8月に日本橋の高島屋の屋上で戦後初めて合気道は一般に公開されました。2年後に朝日新聞が主催した朝日ホールでの演武会は会場に入りきれないくらい以来、新聞、週刊誌等に新しい試合の無い武道として取り上げられるように成りました。
その掲載された雑誌を送ってくれますが、内弟子達は一読すると殆ど処分していました。私は気が付いた時は許可を得て自宅に持ちかえり保存しておきました。アメリカの武道の雑誌ブラックベルトは1966年頃の合気道本部道場の内弟子達の生活を取り上げています。 雑誌の内容を写真で皆さんにみせます。特に内弟子達の給料は1000円と書いてあります。大卒の初任給が10000円の時代です。1/10です。
当時の内弟子達は合気道が好きで、好きで内弟子としてどんな厳しい生活でも厭わない人達の集まりでした。 私が入門してから3年後です。イギリスに合気道普した某師範は、突然、学校卒業後の5月頃に本部道場に来て植芝吉祥丸道場長に内弟子にして下いと来ました。見も知らぬ20歳前の若者です。植芝吉祥丸道場長は当然駄目だと断りました。翌日から朝6時から本部道場の玄関前に座り込みました。勿論雨の日も風の日もです。1か月過ぎました。当時の道場長長補佐の大沢喜三郎師範(現在本部大沢隼人師範の父)が植芝吉祥丸道場に助言して下さり内弟子が許可されました。
その1年後内弟子希望の青年が又来ました。勿論断られました。その青年は朝6時に本部道場にきて掃除、稽古し夜の最終稽古後皆が帰る迄道場にいて掃除や雑用をしました。又翌日朝6時に道場に来て一日いて帰るのです。それを一か月続けました。一か月後大沢師範の助言で内弟子許可が出ました。彼は内弟子許可が出た翌日から全然稽古に来なくなりました。私達内弟子達は「不思議な奴だな、住み込み許可がでたら道場に全然来なくなった」と不思議がりました。一か月後再度現れた時に来なかった理由を聞くと、安心し気が緩み風邪を引き寝込んでいたそうです。後で分かった事ですが二人は中学生時代の同級生でした。
この様な内弟子達の集まりでしたので、多田宏師範の座り技1000本、腹筋1時間等の厳しい稽古に耐えました。基本の技の関節技等を強く捻られても痛いと云わず我慢比べもしました。私は内弟子の中でも一番身体が小さかったですが非常にタフで疲れが早く治る体質でした。受身で素早く立ち技を掛け相手を疲れさす作戦で相手に嫌がられました。
激しい稽古をして10年、昭和39年(1964)年東京オリンピックが10月10日開催されました。柔道の重量級で神永選手がヘーシング選手に敗れました。これにより、日本の武道が世界中に注目されました。それと共に合気道も関心が高まり本部道場に指導者の派遣要請がきました。日本では合気道で生活できないので本部道場内弟子達はフランス、イギリスそしてアメリカに旅立っていきました。
私にはビルマ、現在のミャンマーの軍人に合気道を教える要請が来ました。日本政府は東南アジア各国に戦争の賠償として多額のお金を払っていました。その賠償金で先任として山口清吾師範が派遣されておりその助士としての派遣です。しかし三か月後ミャンマー政府がクウデターで政権が変わりました。ビルマ軍から6名が合気道と柔道を学ぶために派遣されてきました。その軍人達の面倒をみました。
この事で私は神様が私を日本に居るように指示したと感じました。海外在住で合気道の指導者としては行かない決心をしました。そして小平の自宅に道場を開き現在の合気道小林道場が在り、皆さんと楽しい稽古出ています。私始め小林道場の指導部員が短期で海外し指導に行っています。「結び基金」を会員の皆さんの協力により設けて、海外から来る人の援助や費用の出せない国の合気道道場に指導員を派遣し合気道普及に邁進しています。
そして、来年は合気道小林道場創立50記念行事を9月に京都で行う予定です。皆さんの漁協力宜しくお願い致します。
by shihan_aikido
| 2017-11-01 12:22