年頭のご挨拶 |
新年おめでとうございます。
新しい年になり、合気道本部道場の鏡開きにおいて推薦昇段者が発表になりました。
国内外の小林道場関係者も多くの方が昇段されました。誠におめでとうございます。
私の好きな言葉は 「一人でも多くの人に合気道を」と
「段々に 願いをかけて 段々の 段々高き 段を昇らん」
「段々に 段をのぼれば 段々の 段は段々 険しかりけり」が有ります。
私が合気道を稽古しているというと、世間の一般の人達には 何段ですか? と良くきかれます。段、級の高低で修行の高低を判断の基準にして居るからです。私は 生まれた時から九段の上です と答えにます。東京都千代田区の日本武道館の有る九段坂を上がり切った所が実家で生まれた所です。「え・・」と云う顔をしますが冗談だと分かると皆さん笑ってくれます。
昔の武術の制度は「切紙」「目録」「免許」「皆伝」 などでしたが、柔道創始者である加納治五郎先生が普及の為に段制度を考え出したものです。この制度により修行の目標ができ、講道館柔道が世間に普及しました。良い制度ですので各武道関係者も段制度を取り入れるように成りました。
私が合気道の稽古を始めたのは昭和30年(1955年)です。当時は合気道本部道場に稽古に来る人は50名も居なかったと思います。当時の本部道場長、植芝吉祥丸先生は皆さんの顔と名前が分かるので昇段は新年1月15日の鏡開きの日に昇段者の名前を掲示しました。
級、段の審査制度が始まったのは昭和33年頃だったと思います。合気道本部道場も稽古人が増えると共に、支部道場もふえてきました。審査制度を採り入れました。初めの審査は5級からで受験者の相手には内弟子が受身を取りました。受験者の相手が内弟子ですので格上です。気に入らない相手だと技の受け身の時に意地悪し一緒に相手を倒したりしますので、審査近くになると、受験者が受身を取る内弟子にご馳走してくれる様になりました。内弟子達はそれが本当に楽しみでした。合気道の審査にもこんなのどかな時代が有ったのです。
植芝吉祥丸先生は大学合気道の普及に奔走しました。私も母校、明治大学に合気道部を設立しました。各大学合気道部員は全国から集まります。その人達が卒業して故郷各地に帰郷して一部の人達は合気道の稽古を始めました。各道場や支部で段、級の認定が必要に成りますので、審査は本部指導員が審査に立ち会うか、以前植芝門下で修行した人達が立ち会いました。
大学卒業後本部道場指導部員になりました。植芝吉祥丸先生に言われて、現在行われている審査の基本を私と故藤平明師範と二人で原案を作りました。大学合気道部4年間での稽古では弐段までと言う基本もその一つです。
合気道小平道場が発足したのは50年前です。3年後に所沢道場そして八王子道場、元住吉道場と次々開設しました。これには大学合気道部の卒業生が2,3年経つ仕事を辞め小平道場に住み込んで来たからです。その生活費を出す為に支部道場が増えていきました。初めは道場単位で審査していましたが、1年ぐらい経つと審査を受ければ合格という雰囲気に成ってきました。各道場での実力格差も出てきました。
この雰囲気を打開するために私は頭を悩ましました。色々考えた末に本部道場を借り切って全員集まって審査する事にしました。第1回目は約50名受験しました。審査で5割落としました。道場によっては全員不合格の道場が何か所も出ました。指導責任者から苦情が殺到しました。「指導者としての立場や面子をどうしてくれる?小林道場傘下から脱退する!」という苦情です。
私は「分かった、次回から考慮する」と、その場で言いました。次回の審査で私は又5割不合格としました。私としては小林道場の段、級の実力が批判されないような実力を持ってもらいたいと思ったからです。支部や傘下の会員が小林道場から離れても3歳の息子弘明と2人で始めた道場だからと又原点に返り努力すればと覚悟を決めたのです。
受験した門下生達は真剣に我々の事を考えてくれると逆に熱心に稽古し、次回の審査から自分達で納得してから受験してくれる様になりました。小林道場で受験合格した級、段はその実力は国内外の合気道界で何処に行っても納得通用するような規定にしました。そして受験後不合格者は一定期間受験できない規約をも創りました。今でも小林道場の指導部は審査の時この信念を貫いています。
受験者はしっかり稽古をして自信を持って心して受験して下さい。