高野山とホテル浦島宿泊旅行 その2 |
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2019年 10月 14日
本部道場の朝稽古をしていて、就職試験日を忘れてしまったのです。学校の就職課から電話が有り、以後就職を紹介しないと電話が有りました。戦後12,3年就職難の時代です。そのまま卒業です。 4月に成り、家で稽古以外はぶらぶらしていました。父が「保雄、仕事は」と聞かれました。怒られるかと思い小さな声で「無い」と答えると父から、意外な言葉が返ってきました。一言「遊んでろ」です。直ぐ上の兄貴は日比谷高校から慶応大学工学部で特待生、学費免除、入社する会社から奨学金まで支給されていました。(後に工学博士、農学博士を取り、日本の紙関係の最高権威者に成りました。)期待はそちらに向いていましたので、私の事は好きな事を遣らせようと考えていたらしいです。 時間が有りますので、一日中本部道場で稽古をして内弟子同様の生活を送りました。当時,日本人は、ヨーロッパ、アメリカに追いつけ、追い越せと一生懸命働きだしました。テレビのコマーシャルに「24時間戦えますか」の標語が出たくらいです。 社会には経済的に少しずつ余裕が出てきました。合気道も新聞や雑誌に新しい武道として取り上げられ稽古する場所が少しずつ増えてきました。吉祥丸先生は若い私達を指導者として派遣したのです。22〜3歳の元気盛りですので、学生の部活の様な稽古をして、一般人にとっては乱暴な稽古なので「小林は指導者には適さない、と苦情の電話が何回も本部に有った様です。有楽町のガード下に在った産経学園合気道教室(隣はボディビル教室で作家の三島由紀夫氏がきていました)では土曜日の午後の稽古で3週間連続して救急車を呼んだ時にはさすがに吉祥丸先生に怒られました。 当時大卒の給料が1万2~3,000円でしたが本部道場が私に支給されたのは1,000円でした。私は合気道の稽古が出来れば良いので苦に成りませんでした。当時は合気道本部道場もそれほど経済的には困窮していました。 結婚して弘明が生まれたとき、女神様が「こんな給料では生活できない、あなたは、弟子だから言えないでしょうが、私は赤旗を持って本部道場に座り込む」と言い出しました。私は馬鹿だから当時の吉祥丸道場長にこの話をしたら「小林君の奥さんは怖いからと」1000円昇給させてくれました。 1960年代の学生運動が私の運命を変えました。1年、2年と大学が閉鎖され合気道部員の稽古出来なく成りました。大学で稽古出来ないなら小平の自宅駐車場に道場を創り稽古しようと考えました。即実行です。自分で建築し出しました。1969年の年賀状に4月道場開きをするから来て下さいと書いて年賀状を出しました。不思議と協力者が表れて4月に夢にまで見た合気道小林道場が開設して、学生達と稽古を開始しました。 学生達と合気道を楽しそうに稽古している姿をみて、通り掛った人が私の子供に稽古を教えてとか自分も稽古したいと自然に増えていき、世界40ヵ国と交流有る小林道場が生まれたのです。 これも、佐居守氏との出会いが無ければ現在の合気道小林道場はなかったのです。人と人との出会いを大切にし、好きな合気道で生活出来たのは妻である保子の理解と家族、親、そして大学合気道部の協力が有ったからです。心より感謝いたします。皆さん自分の夢を色々と持っていると思います。夢を人に語り、実行に移す努力をして下さい。思い続ければ必ず達成できます。
by shihan_aikido
| 2019-10-14 15:11
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