2006年 11月 15日
竜巻 |
11月7日 北海道 佐呂間町で大きな竜巻が発生し死者12名、負傷23名の被害が有ったと大きく報道されました。竜巻の被害では過去最大で連日TV,ラジオで大きく報道されています。
私の家(現在の小平道場の場所)が昭和40年(1965年)8月に竜巻の被害に遭っているのです。当時は小平道場の付近は見渡す限り畑、畑、畑でした。西武新宿線、小平駅は本当の田舎の駅で改札を通らず乗り降り自由でした。多摩湖線、一橋学園駅は駅前に肉屋、八百屋そしてなぜか床屋の3軒しか店は有りません。そんな田舎でした。私は都心千代田区九段、家内である女神様は栃木県日光から引っ越して来ました。女神様は東京に住めると喜んで来たが日光の方がよっぽど都会だと嘆かれたものです。
結婚して家内のお腹に弘明が宿りました。私は自由気ままに合気道の稽古、と指導にうちこみたかったのです。しかし当時まだ武道指導だけで生活出来る様な社会状態ではありません。「亭主は妻子を扶養する義務がある」「私は働きません」の女神様の強い一言で泣く泣く会社勤めを始めました。
写真は会社員時代の名刺です。本名は康男です。合気道の時は保雄を薦める人がいて長年使っていますが。大学は工学部電気工学科卒なので設計課に就職しました。中途採用ですので試験の時私一人でした。試験官が明大機械科の後輩と分かり「俺は明大の先輩だと脅したり、頼み込んだりして」なんとか採用してもらいました。しかし長年自由気ままな稽古三昧の生活を続けていたので会社勤めが嫌で、嫌で仕方がありませんでした。生活の為に家族の為に我慢、我慢の会社勤めでした。
そんな生活に天罰がきました。8月のある日突然家内から昼過ぎに電話があり「突風で家が壊れたから直ぐ帰る様に」と知らされました。窓の外を見ると快晴だし不思議に思いました。家内の声があまりに真剣な声でしたので急いで帰宅しました。
立川の会社から30分ぐらいで家につきます。一橋学園駅前も何事もないので だまされたかと思いながら歩いてきました。自宅が見回せる角を曲がると愕然としました。周りの畑や空き地に畳、角材その他色々の物が足の踏み場もなく散乱しているではありませんか。我が目を疑いました。
家内の話では突然、空が暗くなり強風が吹き隣の家の屋根が飛び、裏の3000ボルトの高圧線(今は撤去されましたが小平道場駐車場の上を通っていました)に掛かり火の粉が川の様に流れたそうです。隣の大工さんの庭に積んであった畳が舞い上がり50mも飛ばされ、角材が矢のように飛んできて窓に刺さったといっていました。庭にいた犬が2階の屋根で鳴いていたとも聞いています。ほんの100mの長さの被害でした。幸いけが人はでなかったようです。
そして一週間後台風が来て、8割がた直っていた隣の家の屋根が再び飛ばされ今度は高圧線が切れ、私の家の壁を焦がしました。この時も大変な事故でした。
「二度有る事は三度有る」の諺どおり、弘明が生まれて24日目、忘れもしない11月27日の夕方、火災(写真参照)が起こりました。病院から退院したばかりの女神様が発見し、向こう隣3軒が焼けました。私の家も壁や窓枠は焦げましたがなんとか延焼は免れました。しかし内部はかなり壊されました。女神様は妊娠、出産時の3度の事故で精神的かなり参った様です。家内の妹が付きっきりで何ヶ月か過ごしました。平常な生活が出来るようになるまで1年近く掛かりました。
私は自分なりに悩みました。何でこんな災難ばかり私に降りかかるのかを。嫌いな会社勤めをしているから不幸な事が次々と起こるのだと結論を出しました。自分が一番好きなこと「合気道」をやるのが一番と今から思うと自分勝手な理屈を導きだし、8ヶ月勤めた立川飛行機株式会社を辞めてしまいました。そして合気道の稽古と指導に専念し始めました。家族の生活のことは思いも掛けませんでした。今から考えると良く生活出来たなと思います。
この決断が無かったら現在の合気道小林道場道場は無く、皆さんとの合気道を通した交流もできなかったと思います。
精神的に立ち直った女神様は二代道主植芝吉祥丸先生に小林君の奥さんは「こわいから」と言わしめ、合気道小林道場の門弟からは「小林先生の8段は奥さんが5段で先生は3段、合わせて8段だ」といわれています。女神様あっての合気道小林道場です。
今日の格言 「災い遭って福となす」
私の家(現在の小平道場の場所)が昭和40年(1965年)8月に竜巻の被害に遭っているのです。当時は小平道場の付近は見渡す限り畑、畑、畑でした。西武新宿線、小平駅は本当の田舎の駅で改札を通らず乗り降り自由でした。多摩湖線、一橋学園駅は駅前に肉屋、八百屋そしてなぜか床屋の3軒しか店は有りません。そんな田舎でした。私は都心千代田区九段、家内である女神様は栃木県日光から引っ越して来ました。女神様は東京に住めると喜んで来たが日光の方がよっぽど都会だと嘆かれたものです。
結婚して家内のお腹に弘明が宿りました。私は自由気ままに合気道の稽古、と指導にうちこみたかったのです。しかし当時まだ武道指導だけで生活出来る様な社会状態ではありません。「亭主は妻子を扶養する義務がある」「私は働きません」の女神様の強い一言で泣く泣く会社勤めを始めました。

写真は会社員時代の名刺です。本名は康男です。合気道の時は保雄を薦める人がいて長年使っていますが。大学は工学部電気工学科卒なので設計課に就職しました。中途採用ですので試験の時私一人でした。試験官が明大機械科の後輩と分かり「俺は明大の先輩だと脅したり、頼み込んだりして」なんとか採用してもらいました。しかし長年自由気ままな稽古三昧の生活を続けていたので会社勤めが嫌で、嫌で仕方がありませんでした。生活の為に家族の為に我慢、我慢の会社勤めでした。
そんな生活に天罰がきました。8月のある日突然家内から昼過ぎに電話があり「突風で家が壊れたから直ぐ帰る様に」と知らされました。窓の外を見ると快晴だし不思議に思いました。家内の声があまりに真剣な声でしたので急いで帰宅しました。
立川の会社から30分ぐらいで家につきます。一橋学園駅前も何事もないので だまされたかと思いながら歩いてきました。自宅が見回せる角を曲がると愕然としました。周りの畑や空き地に畳、角材その他色々の物が足の踏み場もなく散乱しているではありませんか。我が目を疑いました。
家内の話では突然、空が暗くなり強風が吹き隣の家の屋根が飛び、裏の3000ボルトの高圧線(今は撤去されましたが小平道場駐車場の上を通っていました)に掛かり火の粉が川の様に流れたそうです。隣の大工さんの庭に積んであった畳が舞い上がり50mも飛ばされ、角材が矢のように飛んできて窓に刺さったといっていました。庭にいた犬が2階の屋根で鳴いていたとも聞いています。ほんの100mの長さの被害でした。幸いけが人はでなかったようです。
そして一週間後台風が来て、8割がた直っていた隣の家の屋根が再び飛ばされ今度は高圧線が切れ、私の家の壁を焦がしました。この時も大変な事故でした。

「二度有る事は三度有る」の諺どおり、弘明が生まれて24日目、忘れもしない11月27日の夕方、火災(写真参照)が起こりました。病院から退院したばかりの女神様が発見し、向こう隣3軒が焼けました。私の家も壁や窓枠は焦げましたがなんとか延焼は免れました。しかし内部はかなり壊されました。女神様は妊娠、出産時の3度の事故で精神的かなり参った様です。家内の妹が付きっきりで何ヶ月か過ごしました。平常な生活が出来るようになるまで1年近く掛かりました。
私は自分なりに悩みました。何でこんな災難ばかり私に降りかかるのかを。嫌いな会社勤めをしているから不幸な事が次々と起こるのだと結論を出しました。自分が一番好きなこと「合気道」をやるのが一番と今から思うと自分勝手な理屈を導きだし、8ヶ月勤めた立川飛行機株式会社を辞めてしまいました。そして合気道の稽古と指導に専念し始めました。家族の生活のことは思いも掛けませんでした。今から考えると良く生活出来たなと思います。
この決断が無かったら現在の合気道小林道場道場は無く、皆さんとの合気道を通した交流もできなかったと思います。
精神的に立ち直った女神様は二代道主植芝吉祥丸先生に小林君の奥さんは「こわいから」と言わしめ、合気道小林道場の門弟からは「小林先生の8段は奥さんが5段で先生は3段、合わせて8段だ」といわれています。女神様あっての合気道小林道場です。
今日の格言 「災い遭って福となす」
by shihan_aikido
| 2006-11-15 21:50