2006年 12月 07日
合気ニュースの取材 |
11月22日 10時から合気ニュースの取材を受けました。編集長、木村郁子さんと副編集長、千葉百由利恵さんです。私は今まで何回も合気ニュースの取材を受けています。木村さんとはしばしばお会いしています。気楽にインタビユーを受ける事ができました。
合気ニュースはアメリカ人のスタンレー プランニング氏が初代編集長です。
英文で1974年にガリ版刷りで発刊したのが始まりで1987年には日英対訳版になりました。1990年には日本語版と英語版になり多くの読者を獲得しました。
合気道創始者植芝盛平翁先生の足跡を調べ世間に発表し、戦前、戦後の合気道関係者や高弟と対談し日本国内はもとより海外でも合気道の発展に側面から大きな影響を与えたと私は思います。特に英文で書かれましたので、柔道、空手以外にアメリカ、ヨーロッパを中心に海外で武道に関心を持つ人達に合気道そしてその創始者植芝盛平翁先生の名を知らしめたのは本当に合気道発展の為になりました。そして植芝盛平翁先生に大きな影響を与えた大東流を取り上げ、世間に注目させました。それにより武道関係者にあまり知られず関心もなかった日本各地の古くから伝えられ、受け継がれていた柔術への関心を持たせたのも大きな功績だと思います。
1969年の夏アメリカの一青年スタンレー氏が本部道場に尋ねて来ました。当時は現在と違って本部道場で稽古者の外国人はまだ珍しい時代でした。本部道場で稽古をしながら、亡くなったばかりの植芝盛平翁先生(1969年4月26日逝去)についての話を聞きに来たのでした。言葉の壁と外国人ということで思うように行かなかったそうです。本部道場で指導していた私の稽古時間に彼が出席し稽古してくれました。私は彼に話し掛け、小平の自宅に開設したばかりの合気道小林道場小平道場に連れてきてきました。稽古と翁先生の思いで話をし、私が持っていたアルバムの中から、植芝盛平翁先生の写真を一枚あげました。
この一枚の写真がヒントとなり翁先生の写真、映画そしてゆかりの品を集め、足跡を調べ始めた事をスタンレー氏が合気ニュースのホームページ書いていました。
あげた写真は多分右の写真だと思います。
(本部道場が旧道場から現道場に建て替え時期で、私が指導している時間に
翁先生が突然現れ杖の演武をしてくれた時の写真)
植芝盛平翁先生が亡くなり15年以上も過ぎた1985年頃には合気道は合気会を中心に大きく国内、海外にも普及し始めていました。その他の組織として養心館や気研究会など、他にも幾つか組織があります。合気会の師範でも主義、主張の違いから独自のグループを創っている師範もおりました。
この時期に各師範の主義、主張そして組織の違いを乗り越えて各師範達を一堂に集めての友好演武会をスタンレー氏は計画しました。そして色々な組織の各師範に出演をお願いしたそうです。
私は合気会傘下の合気道小林道場として幾つかの道場を抱えるまでになっていましたので出演の依頼を受けました。私の考えは「1人でも多くの人に合気道を普及する」のが基本的な考えでしたので合気道発展の為に成ると判断し出演を受諾しました。
ですが今から20年以上も前です。この様な演武会開催、師範の出演は始めてのことでしたので各組織、各師範から賛否両論がわき起こりました。出演を受諾した私にも反対している人達から出演を考え直すよう話がありました。
この事により一度出演を受諾した各師範も出演を断り出したとスタンレー氏はいっていました。会場の手配、ポスターそして入場券の発売等と多額の出費で開催出来なければ多額の金額の損失と信用を失い「合気ニュース」の発刊も出来なくなると頭を抱えたそうです。
私がスタンレー氏から出演の最終確認の電話を受けたとき、何のためらいも無く「私は出演を約束しましたので演武します」と返事しました。後日知りましたがこの様な返事をしたのは私1人だったそうです。
私が出演を快受したのでスタンレー氏は力を得て出演を依頼した各師範を再 度説得し第一回友好演武会の開催が実現しました。観客動員数900名で大成功だったそうです。そしてその後2004年「合気ニュース」創刊30周年を迎え第7回友好演武会開催までになりました。私は5回(ラスベガス)、7回の友好演武会にも参加させていただきました。
私は何も意識しなかったのですが、いつの間にか「合気ニュース」に関わりができ、大きな影響を与えていたのに自分でも驚いています。
2005年から雑誌名が「道」と変わりました。取材を受けた私の記事は2007年1月に発刊される号に掲載されます。
ぜひ購読してお読み下さい。
合気ニュースはアメリカ人のスタンレー プランニング氏が初代編集長です。
英文で1974年にガリ版刷りで発刊したのが始まりで1987年には日英対訳版になりました。1990年には日本語版と英語版になり多くの読者を獲得しました。
合気道創始者植芝盛平翁先生の足跡を調べ世間に発表し、戦前、戦後の合気道関係者や高弟と対談し日本国内はもとより海外でも合気道の発展に側面から大きな影響を与えたと私は思います。特に英文で書かれましたので、柔道、空手以外にアメリカ、ヨーロッパを中心に海外で武道に関心を持つ人達に合気道そしてその創始者植芝盛平翁先生の名を知らしめたのは本当に合気道発展の為になりました。そして植芝盛平翁先生に大きな影響を与えた大東流を取り上げ、世間に注目させました。それにより武道関係者にあまり知られず関心もなかった日本各地の古くから伝えられ、受け継がれていた柔術への関心を持たせたのも大きな功績だと思います。
1969年の夏アメリカの一青年スタンレー氏が本部道場に尋ねて来ました。当時は現在と違って本部道場で稽古者の外国人はまだ珍しい時代でした。本部道場で稽古をしながら、亡くなったばかりの植芝盛平翁先生(1969年4月26日逝去)についての話を聞きに来たのでした。言葉の壁と外国人ということで思うように行かなかったそうです。本部道場で指導していた私の稽古時間に彼が出席し稽古してくれました。私は彼に話し掛け、小平の自宅に開設したばかりの合気道小林道場小平道場に連れてきてきました。稽古と翁先生の思いで話をし、私が持っていたアルバムの中から、植芝盛平翁先生の写真を一枚あげました。
この一枚の写真がヒントとなり翁先生の写真、映画そしてゆかりの品を集め、足跡を調べ始めた事をスタンレー氏が合気ニュースのホームページ書いていました。

あげた写真は多分右の写真だと思います。
(本部道場が旧道場から現道場に建て替え時期で、私が指導している時間に
翁先生が突然現れ杖の演武をしてくれた時の写真)
植芝盛平翁先生が亡くなり15年以上も過ぎた1985年頃には合気道は合気会を中心に大きく国内、海外にも普及し始めていました。その他の組織として養心館や気研究会など、他にも幾つか組織があります。合気会の師範でも主義、主張の違いから独自のグループを創っている師範もおりました。
この時期に各師範の主義、主張そして組織の違いを乗り越えて各師範達を一堂に集めての友好演武会をスタンレー氏は計画しました。そして色々な組織の各師範に出演をお願いしたそうです。
私は合気会傘下の合気道小林道場として幾つかの道場を抱えるまでになっていましたので出演の依頼を受けました。私の考えは「1人でも多くの人に合気道を普及する」のが基本的な考えでしたので合気道発展の為に成ると判断し出演を受諾しました。
ですが今から20年以上も前です。この様な演武会開催、師範の出演は始めてのことでしたので各組織、各師範から賛否両論がわき起こりました。出演を受諾した私にも反対している人達から出演を考え直すよう話がありました。
この事により一度出演を受諾した各師範も出演を断り出したとスタンレー氏はいっていました。会場の手配、ポスターそして入場券の発売等と多額の出費で開催出来なければ多額の金額の損失と信用を失い「合気ニュース」の発刊も出来なくなると頭を抱えたそうです。
私がスタンレー氏から出演の最終確認の電話を受けたとき、何のためらいも無く「私は出演を約束しましたので演武します」と返事しました。後日知りましたがこの様な返事をしたのは私1人だったそうです。
私が出演を快受したのでスタンレー氏は力を得て出演を依頼した各師範を再 度説得し第一回友好演武会の開催が実現しました。観客動員数900名で大成功だったそうです。そしてその後2004年「合気ニュース」創刊30周年を迎え第7回友好演武会開催までになりました。私は5回(ラスベガス)、7回の友好演武会にも参加させていただきました。
私は何も意識しなかったのですが、いつの間にか「合気ニュース」に関わりができ、大きな影響を与えていたのに自分でも驚いています。
2005年から雑誌名が「道」と変わりました。取材を受けた私の記事は2007年1月に発刊される号に掲載されます。
ぜひ購読してお読み下さい。
by shihan_aikido
| 2006-12-07 10:37