2007年 01月 05日
年越しお汁粉 |
私が生まれたのは千代田区の九段上です。現在、先生は何段ですかと聞かれると生まれた時から「九段の上」だと冗談をいっています。生家は父親一代で築いた東京でも指折りの米屋で、使用人もたくさんいました。私は8人兄弟姉妹の5男で子供達一人一人に世話をする「乳母」や「ねいや」がいました。私に付いた「乳母」は韓国系の人でしたので今でも単語の発音が訛っているといわれる事があります。
兄弟姉妹が多く「乳母」がいますので母と一緒に遊んだ記憶はほとんどありません。母にかまってもらえないので、今でいうストレスから左手の親指を何時もなめている癖が付きました。それが小学校2年生まで続き、良く親や兄弟に怒られたのを憶えています。指しゃぶりが直ったのは戦争で米が統制品になり米屋ができなくなり、使用人がなくなって母と接する時間が持てた時からです。
米屋ですので年末は米、餅の配達で暮れから晦日、大晦日はおお忙しです。当時の配達は全て自転車で重い米や餅を「リヤカー」に積み各家を配達しました。近衛師団や明大師弟食堂にも米を納入していたと父から聞いた事があります。米、餅の配達は重いし、暮れは寒さが厳しく小僧達は疲労困憊します。特に大晦日は大変で腹は減るし、身体は疲れきっています。そこに「年越しそば」だといって「そば」を若い使用人に食べさせても力が出るはずがありません。
そこで父が考え出したのが「年越しそば」の変わりに「年越しお汁粉」を食べさせる事でした。身体は温まるし、疲れた身体には甘い食べ物は最適で、中に入っている餅は腹に溜まるしそして餅は原価で幾らでもあります。それが我が家の伝統になりました
1965年に結婚し家庭を持った時の年末、嫌がる女神様に一歩も譲らずコバヤシ家の伝統だと「年越しお汁粉」を説得して作らせました。その代わり日曜日以外の朝食は私が反対していたパン食に切り替わりました。これは家庭平和の為、泣く泣く妥協しました。それが現在も続いています。
そして息子弘明の結婚した家庭にも引き継がれています。弘明が何を妥協したのか私には分かりませんが・・・。
兄弟姉妹が多く「乳母」がいますので母と一緒に遊んだ記憶はほとんどありません。母にかまってもらえないので、今でいうストレスから左手の親指を何時もなめている癖が付きました。それが小学校2年生まで続き、良く親や兄弟に怒られたのを憶えています。指しゃぶりが直ったのは戦争で米が統制品になり米屋ができなくなり、使用人がなくなって母と接する時間が持てた時からです。
米屋ですので年末は米、餅の配達で暮れから晦日、大晦日はおお忙しです。当時の配達は全て自転車で重い米や餅を「リヤカー」に積み各家を配達しました。近衛師団や明大師弟食堂にも米を納入していたと父から聞いた事があります。米、餅の配達は重いし、暮れは寒さが厳しく小僧達は疲労困憊します。特に大晦日は大変で腹は減るし、身体は疲れきっています。そこに「年越しそば」だといって「そば」を若い使用人に食べさせても力が出るはずがありません。
そこで父が考え出したのが「年越しそば」の変わりに「年越しお汁粉」を食べさせる事でした。身体は温まるし、疲れた身体には甘い食べ物は最適で、中に入っている餅は腹に溜まるしそして餅は原価で幾らでもあります。それが我が家の伝統になりました
1965年に結婚し家庭を持った時の年末、嫌がる女神様に一歩も譲らずコバヤシ家の伝統だと「年越しお汁粉」を説得して作らせました。その代わり日曜日以外の朝食は私が反対していたパン食に切り替わりました。これは家庭平和の為、泣く泣く妥協しました。それが現在も続いています。
そして息子弘明の結婚した家庭にも引き継がれています。弘明が何を妥協したのか私には分かりませんが・・・。
by shihan_aikido
| 2007-01-05 23:52