2007年 02月 04日
硫黄島からの手紙 |
忙しい中、クリント・イーストウッド監督の米国映画「父親達の星条旗」「硫黄島からの手紙」二本をみてきました。
「父親達の星条旗」は硫黄島のすり鉢山の頂上に立てられた有名な「星条旗の写真」に映っていた兵士の物語です。アメリカ政府が写真の兵士を英雄に仕立て上げアメリカの国民から戦費調達の為利用し、利用されたその兵士達の苦悩と人生の結末を映画にしたものです。権力者は目的達成の為には個人の不幸、苦しみなど考えずどんなことでも利用するのが良く分かりました。
「硫黄島からの手紙」は大本営から見放された硫黄島守備隊総司令官の栗林忠道陸軍中将が圧倒的な兵力の米軍を地下壕にたてこもり苦闘した物語です。
生きては本土に帰れないと分かっていても守備隊の兵士一人一人が家族の事を思い硫黄島を一日でも長く死守し、日本本土をB29からの爆撃から遅らす為に戦い抜いた物語です。
私は栗林中将が一部の参謀の反対を押し切って地下壕に籠もり、圧倒的な米軍に甚大な被害を与え、最後は階級章を一切外し一兵卒として突撃した映像には涙がでました。硫黄島の戦闘は太平洋戦争で米兵の死傷者が日本兵を上回った唯一の戦いだそうです。今までの日本の戦争映画とイーストウッド監督の描き方は一味違った感激を与えてくれました。
この映画の影響で硫黄島に行きたいという問い合わせが東京都や観光会社に殺到していると聞いています。残念ながら住所は東京都ですが一般の人は立ち入り禁止です。自衛隊とアメリカの沿岸警備隊が駐留しているだけです。二十年前に副道場長の小林弘明は遺骨収集団員として硫黄島に行って来た体験が有ります。
彼は大学生だった時、先輩に誘われ学生遺骨収集団員となりました。大学が休みに入ると太平洋戦争の激戦地だったパブアニューギニアやソロモン諸島、そして硫黄島にまで遺骨収集しに行きました。
写真はその時の、収集作業の写真です。 収集した遺骨を積み上げ荼毘に付した時にはさすがに涙が出たと聞いています。
遺骨収集に行っていたソロモン諸島で合気道小林道場を知っている人に出会い合気道の普及を頼まれ人生が大きく変わりました。大学卒業後ソロモン諸島には行けませんでしたがこれが切っ掛けで青年海外協力隊合気道隊員としてインドネシアに2年半滞在し、合気道の普及に専念しました。その後紆余曲折はありましたが協力隊シニア隊員としてポーランドにも半年間合気道指導に派遣され、帰国後合気道小林道場の指導部の一員として活躍してくれ現在があります。
人間チャンスが有るときには多少困難が伴っても色々な体験をしとくべきです。
「父親達の星条旗」は硫黄島のすり鉢山の頂上に立てられた有名な「星条旗の写真」に映っていた兵士の物語です。アメリカ政府が写真の兵士を英雄に仕立て上げアメリカの国民から戦費調達の為利用し、利用されたその兵士達の苦悩と人生の結末を映画にしたものです。権力者は目的達成の為には個人の不幸、苦しみなど考えずどんなことでも利用するのが良く分かりました。
「硫黄島からの手紙」は大本営から見放された硫黄島守備隊総司令官の栗林忠道陸軍中将が圧倒的な兵力の米軍を地下壕にたてこもり苦闘した物語です。
生きては本土に帰れないと分かっていても守備隊の兵士一人一人が家族の事を思い硫黄島を一日でも長く死守し、日本本土をB29からの爆撃から遅らす為に戦い抜いた物語です。
私は栗林中将が一部の参謀の反対を押し切って地下壕に籠もり、圧倒的な米軍に甚大な被害を与え、最後は階級章を一切外し一兵卒として突撃した映像には涙がでました。硫黄島の戦闘は太平洋戦争で米兵の死傷者が日本兵を上回った唯一の戦いだそうです。今までの日本の戦争映画とイーストウッド監督の描き方は一味違った感激を与えてくれました。
この映画の影響で硫黄島に行きたいという問い合わせが東京都や観光会社に殺到していると聞いています。残念ながら住所は東京都ですが一般の人は立ち入り禁止です。自衛隊とアメリカの沿岸警備隊が駐留しているだけです。二十年前に副道場長の小林弘明は遺骨収集団員として硫黄島に行って来た体験が有ります。
彼は大学生だった時、先輩に誘われ学生遺骨収集団員となりました。大学が休みに入ると太平洋戦争の激戦地だったパブアニューギニアやソロモン諸島、そして硫黄島にまで遺骨収集しに行きました。
写真はその時の、収集作業の写真です。 収集した遺骨を積み上げ荼毘に付した時にはさすがに涙が出たと聞いています。
遺骨収集に行っていたソロモン諸島で合気道小林道場を知っている人に出会い合気道の普及を頼まれ人生が大きく変わりました。大学卒業後ソロモン諸島には行けませんでしたがこれが切っ掛けで青年海外協力隊合気道隊員としてインドネシアに2年半滞在し、合気道の普及に専念しました。その後紆余曲折はありましたが協力隊シニア隊員としてポーランドにも半年間合気道指導に派遣され、帰国後合気道小林道場の指導部の一員として活躍してくれ現在があります。
人間チャンスが有るときには多少困難が伴っても色々な体験をしとくべきです。
by shihan_aikido
| 2007-02-04 22:59