2007年 02月 10日
納豆 |
1月の中頃だと思いますが夕食の時、納豆のパックが各自一つずつ食卓に突然並べられていました。家内(女神様)の命令で食事の前、納豆一パックをまず食べろと言います。今まで朝ご飯の時に一パックを皆で食べていたのにいきなりの命令です。何が何だか分からず食べました。納豆は嫌いじゃないので抵抗はありませんでした。
おもむろに女神様曰く「TVの或る番組で毎食納豆を一パック食べ続ければ苦労なく痩せると放送していたので今後毎回納豆を食べさせます」と宣言を聞かされました。日曜日以外の朝食はパン食ですが、それでも納豆が食卓にデンと置いてあります。パン食には合わないなと思いながらも女神様の命令ですので逆らえません。これで痩せるならと笑顔を作りながら食べていました。
何時も同じ会社の納豆が食卓には並んでいましたが、全く違う会社の納豆が並んでいました。私が「いつものとは違うね」と言うと、女神様は「何処のスーパーに行っても納豆が品切れで買えない、やっと買って来たのだから文句言わず食べて」とのたまいます。それから色々な会社の納豆が食卓に並ぶ様になり、会社によって納豆の味の違いが分かる様になりました。
ある日の夕食の時、納豆を箸で掻き回そうとしましたが箸が刺さりません。「何じゃこの納豆は」とよく見ると凍っています。私が「この納豆は凍っているよ」と叫ぶと女神様が「買いだめして冷凍庫に入れておいたの。まだ解凍出来てなかった?」と事も無げに返事をします。70年間生きてきて凍った納豆を食べたのは初めてです。納豆は粘りが有り、糸を引くから美味しいのに世も末だと感じました。女神様は納豆を買いだめしていたのです。
物の買いだめと言えば1974年の秋に石油の高騰で石油ショックの切っ掛けとなったトイレットペーパー買いだめ事件です。大阪の或る団地の主婦が、トイレットペーパーが無くなると言って買いだめした噂が瞬く間に日本全国に広がりました。店頭からイレットペーパーが無くなり国民をパニックに陥れた事件です。そしてしばらくの間、日常生活品全てが物不足に成り、物価が高騰し庶民の生活が大混乱に陥ったのです。
その1974年に合気道小林道場二番目の旧所沢道場が建設されたのです。春から道場の建設が始まりましたが大工さんから引き渡されたのは私が示した予算では建物だけでした。電気、水道そして道場の必需品である畳はなしです。石油の高騰で物価が上がり予算を大幅にオーバーしたのです。四苦八苦し息子弘明のお年玉預金も解約しやっと11月に道場開きができました。雑貨商をしていた父が道場開きのお祝いにトイレットペーパーを持参してきたことを今でも憶えています。
所沢道場の建設があと3ヶ月遅れていたら物不足と全ての物の高騰で道場の建設は出来なかったと思います。私にとっても合気道小林道場にとっても本当に幸運でした。これも土地を安い地代で提供してくれた兄の好意と道場の建設資金不足は分かり切っていましたが思いきって実行した私の決断が正しかったのだと思います。
商売人の父が何時も私達子供に言っていた言葉、「人生ここぞと思う時は全財産を掛けろ、兄弟家族は仲良く、他人に迷惑を掛けるな、お金は食べてゆけるだけ有れば良い」との教訓のお陰です。
所沢道場の開設により、今ブラジルで合気道を普及している鹿内一民師範が
内弟子第一号として住み込みました。その後五十嵐和男師範、畑山憲吾師範そして外国人第一号としてスエーデン人が住み込みました。その後国内外から男女の別なく数多くの人達が厳しい内弟子生活を修行して合気道の発展に貢献してくれています。それにより、合気道小林道場の輪が大きく広がったのです。この様に所沢道場が無かったら合気道小林道場の現在は考えられません。所沢道場が建設出来た幸運、強運を心より感謝しなければなりません。
この事により私の好きな合気道を「一人でも多くの人に稽古して貰う」をモットーにした活動ができたのです。好きな合気道を一心不乱に稽古していますので不思議と大きな怪我、病気もしません。神や家族、弟子の皆さんのお陰だと感謝しています。世の為、人のためにより一層貢献していきます。女神様、内弟子達には迷惑を掛けますが・・・。
先生が一番元気だと言われるようにこれからも「納豆」を食べるぞー!
おもむろに女神様曰く「TVの或る番組で毎食納豆を一パック食べ続ければ苦労なく痩せると放送していたので今後毎回納豆を食べさせます」と宣言を聞かされました。日曜日以外の朝食はパン食ですが、それでも納豆が食卓にデンと置いてあります。パン食には合わないなと思いながらも女神様の命令ですので逆らえません。これで痩せるならと笑顔を作りながら食べていました。
何時も同じ会社の納豆が食卓には並んでいましたが、全く違う会社の納豆が並んでいました。私が「いつものとは違うね」と言うと、女神様は「何処のスーパーに行っても納豆が品切れで買えない、やっと買って来たのだから文句言わず食べて」とのたまいます。それから色々な会社の納豆が食卓に並ぶ様になり、会社によって納豆の味の違いが分かる様になりました。
ある日の夕食の時、納豆を箸で掻き回そうとしましたが箸が刺さりません。「何じゃこの納豆は」とよく見ると凍っています。私が「この納豆は凍っているよ」と叫ぶと女神様が「買いだめして冷凍庫に入れておいたの。まだ解凍出来てなかった?」と事も無げに返事をします。70年間生きてきて凍った納豆を食べたのは初めてです。納豆は粘りが有り、糸を引くから美味しいのに世も末だと感じました。女神様は納豆を買いだめしていたのです。
物の買いだめと言えば1974年の秋に石油の高騰で石油ショックの切っ掛けとなったトイレットペーパー買いだめ事件です。大阪の或る団地の主婦が、トイレットペーパーが無くなると言って買いだめした噂が瞬く間に日本全国に広がりました。店頭からイレットペーパーが無くなり国民をパニックに陥れた事件です。そしてしばらくの間、日常生活品全てが物不足に成り、物価が高騰し庶民の生活が大混乱に陥ったのです。
その1974年に合気道小林道場二番目の旧所沢道場が建設されたのです。春から道場の建設が始まりましたが大工さんから引き渡されたのは私が示した予算では建物だけでした。電気、水道そして道場の必需品である畳はなしです。石油の高騰で物価が上がり予算を大幅にオーバーしたのです。四苦八苦し息子弘明のお年玉預金も解約しやっと11月に道場開きができました。雑貨商をしていた父が道場開きのお祝いにトイレットペーパーを持参してきたことを今でも憶えています。
所沢道場の建設があと3ヶ月遅れていたら物不足と全ての物の高騰で道場の建設は出来なかったと思います。私にとっても合気道小林道場にとっても本当に幸運でした。これも土地を安い地代で提供してくれた兄の好意と道場の建設資金不足は分かり切っていましたが思いきって実行した私の決断が正しかったのだと思います。
商売人の父が何時も私達子供に言っていた言葉、「人生ここぞと思う時は全財産を掛けろ、兄弟家族は仲良く、他人に迷惑を掛けるな、お金は食べてゆけるだけ有れば良い」との教訓のお陰です。
所沢道場の開設により、今ブラジルで合気道を普及している鹿内一民師範が
内弟子第一号として住み込みました。その後五十嵐和男師範、畑山憲吾師範そして外国人第一号としてスエーデン人が住み込みました。その後国内外から男女の別なく数多くの人達が厳しい内弟子生活を修行して合気道の発展に貢献してくれています。それにより、合気道小林道場の輪が大きく広がったのです。この様に所沢道場が無かったら合気道小林道場の現在は考えられません。所沢道場が建設出来た幸運、強運を心より感謝しなければなりません。
この事により私の好きな合気道を「一人でも多くの人に稽古して貰う」をモットーにした活動ができたのです。好きな合気道を一心不乱に稽古していますので不思議と大きな怪我、病気もしません。神や家族、弟子の皆さんのお陰だと感謝しています。世の為、人のためにより一層貢献していきます。女神様、内弟子達には迷惑を掛けますが・・・。
先生が一番元気だと言われるようにこれからも「納豆」を食べるぞー!
by shihan_aikido
| 2007-02-10 22:49