2007年 03月 01日
あこがれのハワイ航路 |
晴れた空 そよぐ風 港出船のドラの音愉し 別れテープを 笑顔で切れば希望はてない 遙かな潮路 ああ 憧れのハワイ航路

と、酒の席では必ずビール瓶をマイク変わりにして、楽しそうに歌う某道場の会員がおります。
この歌を聴くと昭和31年(1956年)夏当時、合気道本部道場の藤平光一師範部長が竹芝桟橋からハワイに行く時の事を思い出します。私達内弟子達が見送りにきました。別れのドラが鳴り5色のテープが飛び合いしお互いに端を握り合います。船が離岸と共にテープがちぎれ風になびき本当に情緒がありました。私達も何時かハワイに行って見たいと心より思いました。
合気道が日本以外の国で指導されたのは昭和28年(1953年)フランスとハワイです。ハワイは西式健康法のハワイ支部の人達が、日本でもまだあまり知られてない合気道に注目し、合気道本部道場師範部長の藤平光一先生を講師として招いたのが発端です。
その理由は日本が戦争にまけて日系人全体が自信を無くしており、特に息子、娘の2世、3世が日本の武道「合気道」を学ぶ事により自信を取り戻させようとしたのです。優れた指導能力と実力を持った藤平光一先生はその期待に答えハワイ各地に合気道を普及させました。
私達が今準備体操で行っている一教運動、二教運動、小手返し運動、体捌きの入身、転換、回転などは全て藤平先生がハワイで指導するために考え出したものです。初心者や集団で稽古するときに分かり易く、憶えやすく非常に優れた指導法と思い合気道小林道場では全面的に取り入れております。
藤平光一先生を一躍有名にした事が起こりました。全米柔道大会の会場に呼ばれ藤平先生が合気道の演武をしました。合気道の演武を見ていた司会者が勝手に柔道大会の1位~5位の者を一斉に掛からせました。瞬時に全員を投げたので一躍合気道の名がアメリカに広がりました。
藤平先生の話では柔道大会で合気道の演武が終わり挨拶しようと立っていると司会者が何か早口の英語で何か叫びました。その瞬間柔道家5人が一斉に跳び掛かってきたので、訳が分からなかったが身体が自然に動き2~3人投げたら後はお互いにぶつかり合って転んだそうです。
これを切掛けにハワイだけでなくアメリカ本土にも広がり現在の合気道の発展が有るのです。

右の写真は旧本部道場で投げているのが藤平先生
豪快に投げられているのが若かりし頃の私です。
私も念願かなって昭和50年(1975年)にハワイに行きました。合気道小林道場の内弟子第1号である鹿内一民師範をブラジルに派遣するときに同行し、帰国時アメリカ本土そして憧れのハワイの各地で稽古指導をしながら回ったのが最初です。この時は残念ながら船ではなく羽田発の飛行機でした。
その後合気道小林道場の会員の人達と稽古と観光を兼ねて何回もいきました。
3年に一度の明治大学体育会合気道部海外遠征合宿では、学生の希望により3回も行っています。
しかし最近ではハワイ合宿を、と言うと合気道小林道場指導員もハワイまで行って稽古するのですかと乗って来ません。ハワイにも合気道小林道場の交流道場があります。ハワイの先生は2年前70才で再婚した元気で陽気な先生です。
会員の皆さんハワイ観光、稽古合宿を復活させましょう。

と、酒の席では必ずビール瓶をマイク変わりにして、楽しそうに歌う某道場の会員がおります。
この歌を聴くと昭和31年(1956年)夏当時、合気道本部道場の藤平光一師範部長が竹芝桟橋からハワイに行く時の事を思い出します。私達内弟子達が見送りにきました。別れのドラが鳴り5色のテープが飛び合いしお互いに端を握り合います。船が離岸と共にテープがちぎれ風になびき本当に情緒がありました。私達も何時かハワイに行って見たいと心より思いました。
合気道が日本以外の国で指導されたのは昭和28年(1953年)フランスとハワイです。ハワイは西式健康法のハワイ支部の人達が、日本でもまだあまり知られてない合気道に注目し、合気道本部道場師範部長の藤平光一先生を講師として招いたのが発端です。
その理由は日本が戦争にまけて日系人全体が自信を無くしており、特に息子、娘の2世、3世が日本の武道「合気道」を学ぶ事により自信を取り戻させようとしたのです。優れた指導能力と実力を持った藤平光一先生はその期待に答えハワイ各地に合気道を普及させました。
私達が今準備体操で行っている一教運動、二教運動、小手返し運動、体捌きの入身、転換、回転などは全て藤平先生がハワイで指導するために考え出したものです。初心者や集団で稽古するときに分かり易く、憶えやすく非常に優れた指導法と思い合気道小林道場では全面的に取り入れております。
藤平光一先生を一躍有名にした事が起こりました。全米柔道大会の会場に呼ばれ藤平先生が合気道の演武をしました。合気道の演武を見ていた司会者が勝手に柔道大会の1位~5位の者を一斉に掛からせました。瞬時に全員を投げたので一躍合気道の名がアメリカに広がりました。
藤平先生の話では柔道大会で合気道の演武が終わり挨拶しようと立っていると司会者が何か早口の英語で何か叫びました。その瞬間柔道家5人が一斉に跳び掛かってきたので、訳が分からなかったが身体が自然に動き2~3人投げたら後はお互いにぶつかり合って転んだそうです。
これを切掛けにハワイだけでなくアメリカ本土にも広がり現在の合気道の発展が有るのです。

右の写真は旧本部道場で投げているのが藤平先生
豪快に投げられているのが若かりし頃の私です。
私も念願かなって昭和50年(1975年)にハワイに行きました。合気道小林道場の内弟子第1号である鹿内一民師範をブラジルに派遣するときに同行し、帰国時アメリカ本土そして憧れのハワイの各地で稽古指導をしながら回ったのが最初です。この時は残念ながら船ではなく羽田発の飛行機でした。
その後合気道小林道場の会員の人達と稽古と観光を兼ねて何回もいきました。
3年に一度の明治大学体育会合気道部海外遠征合宿では、学生の希望により3回も行っています。
しかし最近ではハワイ合宿を、と言うと合気道小林道場指導員もハワイまで行って稽古するのですかと乗って来ません。ハワイにも合気道小林道場の交流道場があります。ハワイの先生は2年前70才で再婚した元気で陽気な先生です。
会員の皆さんハワイ観光、稽古合宿を復活させましょう。
by shihan_aikido
| 2007-03-01 15:34