10年ぶりの韓国指導 |


審査は初段24名、2段5名 3段3名 4段1名でした。私達が全員見守る中での受験になるので、皆事前にかなり稽古したようです。全体的にレベルは高く、全員合格しました。これにより、韓国で二人目の4段が誕生し、大韓合気道會の発展が実感できました。今回の韓国指導については、同行者が指導員ブログに書きます。私は別な角度から大韓国合気會の歴史を書いてみたいと思います。

韓国では以前から合気道(ハップキドウ)という漢字で書くと合気道(アイキドウ)と同じ名の武道がありました。話によりますと韓国人が日本で大東流合気柔術を学び、韓国に帰国してから突き、蹴りを取り入れ合気道(ハップキドウ)と名乗り広がったという話です。
平成5年5月に合気道小林道場の20周年記念演武会の時、当時韓国合気道(ハップキドウ)の大きな団体の三山武術連合会のユン会長以下20名が参加演武してくれました。その演武は投げ技もありましたが突き、蹴りを主体にした非常に堅い動き、捌きでした。韓国の合気道(ハップキドウ)と我々が学んでいる合気道(アイキドウ)とは漢字では同じですが全然違う武道でした。
韓国の合気道(ハップキドウ)の責任者ユン師範は合気道小林道場の演武会参加で我々の日本の合気道(アイキドウ)の演武を視て、非常に優れた武道だと認識してくれました。
彼のいう日本の合気道の優れている理由として、武道で有りながらその精神は愛と和合と統一の武道で有るとの考え方です。私(ユン師範)は武道に強さのみを求めて現在まで修練していましたが、武道でありながら相手と争わない考えに新鮮で非常に強いショックを受けました。また、合気道(アイキドウ)の稽古を見てみますと4才の子供から50~60代、あるいはそれ以上の年齢の幅広い人達が生き生きと楽しそうに稽古、演武をしている姿を見て感激でしました。韓国では、ほとんどの人達が武道に強さのみを求めているので、30才過ぎたら体力の限界を感じ辞めてしまいます。韓国人の武道に対する考え方と日本人の武道に関する考え方の違いを実感したそうです。こんな素晴らしい植芝盛平翁先生の合気道を是非韓国にも普及しようと決心したといっていました。
そして帰国後ユン師範は植芝盛平翁先生の合気道を韓国で普及を決心し苦難の道を歩き初めました。韓国の合気道(ハップキドウ)から日本の合気道(アイキドウ)への変更は三山武術連合会の崩壊をまねきました。しかし彼の決意と意志は固く合気道(ハップキドウ)6段を捨てて合気道小林道場に住み込み修行に飛び込んできました。私は彼の熱意に応え、韓国での全面的な合気道(アイキドウ)普及の為の指導員の派遣、大韓合気道會からの合気道小林道場の岩井合宿参加の経済的支援を約束しました。それからユン師範は合気道(アイキドウ)の韓国での普及に全力を挙げて取り組んでくれました。
合気道と漢字で書くとハップキドウと間違われますのでAIKIDOとローマ字で書いて普及に乗り出しました。韓国語ではAI「子供」、KIDOは「祈る場所」と云う意味があるため、突然病気の子供を連れた親が尋ねてきて、お祈りで子供の病気を直して下さいといわれた事があったそうです。
ユン師範は以前韓国の合気道(ハップキドウ)の重量級チャンピオンで、タイの格闘技ムエタイの重量級のチャンピオンでもありました。韓国武道界で知名度が高く実力者のユン師範が日本の武道、合気道(アイキドウ)の解説本を発刊し普及に乗り出しました。合気道は日本武道家植芝盛平翁先生が創始し、韓国の合気道(ハップキドウ)も日本をその起原とすると書いたのです。
それまでは合気道(ハップキドウ)は韓国独自の武道とされており、この本の発刊により韓国武道界で大問題になりました。ユン師範には手紙や電話による脅しや中傷が数多く寄せられ、一時期は道を歩くのに危険を感じ、壁を背にして歩いたといっていました。
以上様な困難を乗り越え20年、首都ソウルを中心に全土に合気道の普及が徐々にですが広がって来ています。そして私も今回10年ぶりに指導に赴きました。ユン師範も2年か3年に一度大韓合気會での私の指導を望んでいます。
これを機会に現在の合気道小林道場指導部員の派遣以外にもお互いの会員同志の交流を図り一層の親密な関係を結んで行って欲しいです。
大韓合気道會の益々の発展と合気道小林道場との更なる交流を私はのぞんでいます。是非一番近い隣の国、韓国に道着を担いで行って下さい。