小林道場 総師範ブログ
2021-06-11T09:54:50+09:00
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総師範が秘伝を伝授
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第58回全日本合気道演武大会
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2021-06-09T11:50:00+09:00
2021-06-11T09:54:50+09:00
2021-06-09T11:50:54+09:00
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5月15日(土)に第58回全日本合気道演武大会が群馬県高崎市の高崎アリーナで開催されました。
今年は東京オリンピックの準備の為、例年使われていた日本武道館が使用出来ませんでした。しかも新型コロナの感染対策の為に、指名された演武者だけの演武で規模を縮小して無観客で行われました。
↑日比谷公開堂での総師範の演武
当日、12時開始の為に9時に小平道場を私、弘明道場長家族が出発し高碕に向かいました。
緊急事態宣言下でしたが、結構高速道路は車が走っていました。
11時には高崎アリーナに到着し、会場入館時には、受付で感染症対策の検温、入館証の提示、事前に渡されていた
一週間分の健康観察表の提出や更衣、館内での三密防止、間隔を開けての座席着席等々の注意を受けて入場出来ました。
出場演武者は各団体の師範、指導員の67名の個人演武のみで受け身を合わせても総勢わずか193名でした。
会場準備や案内、プログラム進行係等、演武会関係者そして大会招待者等で約150名位でした。
その為2階座席は無観客で会場全体静まり返っています。普段の演武会から考えると奇異な光景でした。
2階の指定された食事座席で見学しながら持参の握り飯を食べていますと、雑誌「合気道探求」の記者の方が来てインタビューしたいといいます。私としては特別な場所に連れていかれての話すのが面倒なので「今ここでやりましょう」というと一寸戸惑っていましたが、カメラマンも呼び寄せ演武を見ながらインタビューが始まりました。
私は記者に対して「先程、廊下で守央道主とお会いした時に私の演武会の出場が初回から今回迄の連続出場をご存知の様で声を掛けられました。」と云うと記者も驚いていました。
演武大会の始まりは昭和30年代から5月に植芝盛平翁先生が行っていた、一週間の本部道場講習会でした。その時には地方の師範が翁先生の講習を受ける為に参加してきました。最後の日に成果発表として演武会が開催されています。
段々と参加人数が増え本部道場では手狭になってきました。そこで昭和35年(1960年)5月の最終日に新宿の山野ホールを借りて演武会を行いました。その時に地方の師範も何人か参加しましたのでそれを第一回全日本合気道演武大会と銘打ちました。その後は日比谷公会堂で毎年行う様に成りました。確か第6回演武大会まで日比谷公会堂でおこなわれました。
合気道小林道場は1969年4月7日に小平道場が開設されましたが、残念な事に4月26日に創始者植芝盛平翁が入神されました。この年は植芝盛平翁追悼演武会として10月に演武会が行われ小林道場も道場演武として初めて全日本の演武会に参加ました。その後、小林道場からの参加者は増え続け、1面のみではあふれる様になり、2面、3面と使用する畳が増えていき、個人道場では小林道場だけが5面全部を使用するまでなりました。
しかし、今年は個人のみの演武ですので、小林道場は総師範の私だけの演武です。受け身は弘明道場長そして小林香穂参段です。演武はユーチューブに出ていますのでご覧ください。
ユーチューブを見た会員から連絡が有りました。コロナで休会していましが、総師範の元気な演武の姿をみて、稽古再開しますとメールが入りました。合気道小林道場は「一人でも多くの人に合気道を」基本方針に活動しています。このメール受けただけでも演武をした価値が有ったと思います。皆さんコロナに負けず元気に稽古で汗を流しましょう。そして合気道の仲間を増やして行きましょう。
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ユリ
http://shihan.exblog.jp/31255502/
2020-07-03T09:27:00+09:00
2020-07-03T09:27:27+09:00
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自粛期間の間、長期間に身体を動かして無い人が多いので、小林道場指導部では準備体操、合気体操そして基本の体捌きを重点にし、稽古時間も全道場1時間にして怪我や体調不良者が出ないように注意しています。終了後の自主練習も30分以内としました。稽古中も原則として、マスク着用ですので、受け身が続くと呼吸が苦しくなるので、起き上がった時にマスクの真ん中を引っ張って大きく息を吸ったりしています。
6月20日(土)の小平道場朝6時半からの稽古で常連のメンバーが揃いました。今までは、朝稽古後皆でお茶を飲み、稽古を希望する人は自主稽古を続け、書道の稽古をしたい人は書道をしていました。しかし、しばらくこの行為も中止です。稽古後、私が外を見ますと駐輪場の花壇にバラの木が植わっています。今は大きくなり2階の手すりまで届いています。そのバラが咲き終わり、内弟子のエリカが植えたユリが成長して丁度大きな花が咲き出しました。私の手のひら位ある大きな花です。
ユリを見ると思い出す言葉が有ります。結婚したての頃、女神様の母親から手紙が来ると文末に必ず「下見て暮らせユリの花」という文章が書かれています。昔のユリは下を向いて必ず咲いていたのです。人生上を向いて夢を見るのは良いが、足元固めて地道に生活しなさいという戒めの言葉です。最近のユリは品種改良され、上を向いて咲く花も有り、花も考えられない位、大きな花に代わっています。
昔の言葉も時代と共に通用しない面も出てきます。古い事に執着すると取り残されます。合気道の精神、基本の技そして基本の稽古方法は変える必要は有りません。取り巻く、世の中の事は時代に合わせて変えて行き、小林道場の基本精神、一人でも多くの人に合気道を実践して仲間を増やして行きましょう。
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合気神社参拝
http://shihan.exblog.jp/31233617/
2020-06-17T11:20:00+09:00
2020-06-17T11:21:53+09:00
2020-06-17T11:20:52+09:00
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私は1955年4月本部道場入門以来、全日本合気道演武会は第1回から全て参加してきました。 残念ながら、今年の全日本合気道演武大会は中止となり、その記録も58回で途切れる事になりました。
毎年4月29日に合気神社(茨城県笠間市)で行われる合気神社大祭も新型コロナウイルスの関係で今年は中止になりました。合気神社大祭の参拝も毎年楽しみにしていました。
5月25日に緊急事態宣言が解除になりました。弘明道場長の提案で私、弘明道場長夫妻と孫の香穂弐段、エリカ(ハンガリー人女性、結び基金により1年間内弟子として滞在中)の5名で合気神社と愛宕山神社に参拝に行って来ました。緊急事態宣言は解除されましたが、高速道路はまだ渋滞しないだろうと考え、小平道場を10時出発しました。毎年の例で守谷のサービスエリアでトイレ休息しました。私が思っていた以上に、高速道路の車やサービスエリアには人出と車がありましたが、何の問題も無く合気神社には12時前に到着しました。サービスエリアのトイレ休憩を入れても僅か2時間です。快適なドライブ日和でした。勿論、合気神社には誰も居ません。昨年の大祭では1千人以上の参加者が有りましたので本当に静かでした。しかし、神殿の雨戸は全て明け払われていました。合気神社、道場通路には落ち葉も無く綺麗に掃き清められていました。気持ち良く参拝できました。道場の方にも回って見ましたが、人っ子一人いませんでした。
神社の目の前には岩間神信合気道修練会の斎藤仁平師範のご自宅があります。すぐに、斎藤師範の自宅兼道場を訪ねましたが、お留守でしたので残念ながらお会いできませんでした。
その後、私は愛宕神社に車で直行し参拝に行きました。弘明道場長、香穂そしてエリカは中腹駐車場から330段の階段を登って私と拝殿前で合流参拝しました。
写真:合気神社で祝詞を奏上される翁先生
昔の話ですが、本部道場内弟子達は合気神社開催の為に2、3日前から岩間に派遣されます。岩間の斎藤守弘師範や道場生も手伝ってくれますが、広い敷地の落ち葉掃きや雑草を抜く仕事は半端なく大変でした。天気の良い日なら気分が良いのですが、雨でも降ると本当に嫌になりました。合気神社大祭といっても私が入門した当時は全員で15名~20名前後が参列するだけです。
今の様に社殿が無く、翁先生が神殿の前に正座し、祝詞をあげられます。後ろで早く終わらないかなと一緒に唱えながら、正座して待っていました。雨が降ると正座して祝詞をあげておられる翁先生に傘をさします。この時は傘をさす係は正座しなくて済みますので足の痺れを気にせずに済みます。
写真:昔の大祭の様子
今思えば、本部道場の内弟子時代、掃除や稽古衣の整理・整頓そして先輩の代稽古を率先して行なうなど、直接稽古指導と関係ない様な道場の雑用経験が自分で道場を開設した時に非常に役にたちました。皆さん、色々な体験を積んで今後の人生に役に立てて下さい。
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令和二年 八段昇段者
http://shihan.exblog.jp/31032467/
2020-01-29T03:05:00+09:00
2020-01-29T03:06:16+09:00
2020-01-29T03:05:03+09:00
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1、畑山憲吾師範は秋田県出身、秋田で合気道の稽古を始めました。大学卒業後上京し東芝府中工場に勤務されました。その後も稽古を続ける為に合気道小平道場に入門しました。しばらくして所沢道場に住み込み内弟子をしながら東芝勤務をつづけていました。何年かして、合気道専門家道に進みたいと希望され私に申し出が有りました。当時の合気道小林道場では、まだ内弟子として扶養する事が困難でしたので、明治大学合気道部の後輩でドイツ合気会、浅井勝昭師範の元に派遣しました。 その後、合気道小林道場は東京の郊外、三多摩、埼玉、神奈川そして千葉と大きく発展し、専門指導員不足に成りました。畑山師範にドイツに残るか、帰国するか本人の希望を確認しました。日本に帰国すると希望されましたので又小林道場指導部員として受け入れました。帰国後、小平道場会員の貴代さんと結婚され所沢、狭山、そして本川越を中心とした西武線沿線の道場を指導をして貰いました。そのご、狭山に自宅兼道場を開らかれ小林道場から独立しました。息子さん弘氏も合気道専門家として活躍大きな組織を持たれています。
2、堀越春義師範は法政大学で合気道部に所属、故有川本部師範の指導を受けました。身体も大きく、背も高いので豪快な技をします。大学卒業後会社勤め中、所沢道場に入門し稽古を再開されました。その後、小林道場指導部員を希望されました。海外指導経験として、台湾、台北市龍山道場の指導に三カ月行かれました。帰国後、小林道場埼玉県春日部地区の指導担当者として、合気道普及に努力されました。その後、独立され、現在は春日部道場、せんげん台道場、加須、宮代、羽生、岩槻等々で指導され、海外にも多くの国に指導に行かれています。彼も息子さんが副道場長として活躍されています。
3、石垣晴夫師範は埼玉大学合気道部の一期生です。合気道部を設立した今村樹憲氏と同級生で友人でした。今村氏は本部道場指導部時代に私が指導していた新橋道場で初段を取得しました。それを機会に大学に合気道部設立の希望を私と一緒に当時の植芝吉祥丸先生に相談しました。吉祥丸先生は「小林、お前が土曜日昼休みに指導し、総武線沿線なのでその後新橋を指導しろ」との一言で埼玉大学合気道部が発足しました。石垣氏は卒業後、長野県松本に移住。仕事の傍ら合気道の普及に乗り出しました。信州大学合気道部を結成しました。4,5年後、私が埼玉県浦和方面での合気道普及を提案しました。北浦和に帰ってきて、A&P石垣道場開き埼玉県浦和市を中心に道場を広げています。埼玉県合気道連盟理事、長野県合気道連盟主席師範、ヨークカルチャーセンター合気道教室師範、イラン合気道師範、台湾共進会技術顧問の役職に就いています。
以上の様に私の指導方針「一人でも多くの人に合気道を」で地道に稽古を続けて素晴らしい指導者が育っています。今年は私の干支、ねずみ年です。私にとって7回目干支です。満84歳に成りますが、皆さんと一緒に合気道の本質「投げ、投げられて稽古」を貫いて行きます。今年の海外指導も、スウェーデン、台湾が決まっています。 私に会うと、海外の道場又組織の指導者の皆さんが是非、観光がてら来て下さいと云ってくれます。有難い事です。一緒に修行、精進して行きましょう。]]>
お忍びの台湾旅行
http://shihan.exblog.jp/31010746/
2020-01-15T13:35:00+09:00
2020-01-15T13:35:27+09:00
2020-01-15T13:35:27+09:00
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私達夫妻と弘明道場長夫妻は12月23日、羽田空港ホテルに宿泊、朝早い便で弘明道場長夫妻と台湾台北市に飛びました。理由は孫の香穂が来年2月まで台北市の師範大学に留学中なので逢に行きました。訪問一週間前に台湾の合気道協進会師範の呂承栄氏が小平道場を訪問したのですが、私達の台湾訪問の件を話しませんでした。私達の訪問を台湾合気道関係者に知らせれば、稽古と歓迎会が毎日の様に予定されるからです。
台北市の中心街に有るホテルに着き、夕方台北の香穂の通っている師範大学合気道部の稽古を見学に行きました。師範大学はホテルからタクシーで10分位の台北市中心街の便利な所に在ります。香穂の宿舎は大学の構内に在りますので、香穂の部屋を見学しました。6畳ぐらいの広さを二人で住んでいるそうです。
バス、トイレ、冷蔵庫は有りますが、自炊の出来るような設備は有りません。殆ど学食か外で食事の様です。
道場は宿舎の前の建物が体育設備の建物です。道場は200畳位の広さが有り半分は板の間です。師範大学の合気道部員、約20人、一般の社会人が4,5名稽古していました。女子部員の方が多いい様です。指導は50代の人が指導者です。
私達家族が道場に入ると指導の先生は挨拶に来てくれました。技は後ろ技を稽古していましたが、基本に忠実で確りした稽古でした。2時間の稽古が21時に終わりました。私達に挨拶をと責任者に促されました。私が「孫の香穂がお世話に成っている」と感謝の言葉を延べました。写真を撮っていた部員が日本語を喋るので通訳を頼みました。しかし、急に通訳を頼まれて、緊張したので言葉がしどろもどろに成ってしまいました。見かねて弘明道場長が変わって通訳をしてくれました。弘明道場長も台北の東呉大学に1年間留学経験が有りますので中国語は堪能です。最後に私達を交えて部員全員で記念写真を撮りました。
翌朝、弘明道場長がメールを見て、台湾合気道協進会の理事長夫妻や呂承栄師範から台北に滞在しているのに何故知らしてくれないと、苦情のメールが入っていると叫びました。昨夜、師範大学合気道部員と一緒に撮った写真を誰かがSNSに流したのです。それを見た役員からの苦情で、昼は観光と今夜一緒に食事をとの事です。昼の観光と夜の食事会は私達も香穂との行動予定を立てていましたので勘弁して貰い、昼の食事会だけにして貰いました。一生懸命私達を歓迎して下さる気持ちには感謝の一言です。内密の台湾旅行は出来無い事を実感しました。
台湾の合気道会も年一度全台湾の合気道道場、組織が集まり盛大な演武会を開いています。この3年間、私は全日本合気道演武大会と中華民国合気道演武大会の日程が重なってしまいました。その為に全日本演武大会を優先するので参加出来ずにいました。今年は東京オリンピック大会の準備の為に全日本合気道演武大会は九段の日本武道館が使用できません。全日本演武大会は群馬県高崎駅近くに有るスポーツアリーナで5月16日(日)に開催されます。その為に5月10日に中華民国合気道演武大会の台北市立体育館で行われます演武大会には参加可能です。午前中が講習会、午後から演武会だそうです。全台湾の合気道修行生が約1000名集まり演武します。
今年は4年振りで私も中華民国合気道演武大会に是非参加したいと思っています。3月頃から私と同行する参加希望者を募ります。合気道小林道場直轄、傘下関係団体の皆さん、是非中華民国合気道演武大会に是非一緒に行きませんか。
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戦後初めての外国人内弟子
http://shihan.exblog.jp/30951795/
2019-12-04T17:37:00+09:00
2019-12-04T17:40:16+09:00
2019-12-04T17:37:35+09:00
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何故、私に連絡が有ったかというと、彼が本部道場に取材に行ったのですが、本部道場には昭和30年(1955年)に初めて内弟子に成った「アンドレ・ノケ氏」の入門記録や写真は有るのですが、彼の事を知っている人が誰も居ないとの事でした。
写真:中央がアンドレ・ノケ氏、その右が若かりし頃の総師範
私は昭和30年(1955年)4月本部道場に入門しました。その半年後の昭和30年9月の日本橋高島屋の屋上で戦後初めて合気道が一般に公開されました。この様な状態なので、当時の合気道は本部道場といっても朝と夕二回の稽古でした。稽古人数は内弟子含めて、朝6時半~7時半の稽古は10人~15人位で、18時半~19時半の夜の稽古も同じ位の人数でした。本部道場の会員全体で40名~50名人位です。
当時の本部道場道場長、植芝吉祥丸先生は合気道では生活出来ず証券会社のサラリーマンをやっていました。
この様な状況の中で、フランス人の「アンドレ・ノケ氏」が内弟子として住み込みました。これは、昭和28年に阿部正師範がフランスに渡り初めて合気道をフランスに広めました。その推薦で当時40歳ぐらいの「アンドレ・ノケ氏」が来日したのです。柔道をしていたので体はガッチリしていました。
戦後まだ10年です。まだまだ食べるものが世間一般には十分では無かった時代です。今考えても良く内弟子として外国から合気道を修行する為に来日したと感心しています。本部道場には当時も内弟子が居ました。その内訳は、
1、専門家を目指す者
2、住み込んで修行しながら会社に行く人
3、朝晩稽古しながら大学に通う人等です。
当時の本部道場は木造の道場で、冬は一番辛い時期です。内弟子達は道場の奥に有る6畳の部屋で生活していました。天窓が有り光は入るのですが、日は当たりません。当時の冬は今よりも本当に寒かったです。日の当たらない控室に暖房は火鉢一つです。内弟子達は寒いので一人の時は股火鉢(火鉢の上に跨る)をしたり、何人か居る時は手、足を温めるのがせめてもの慰めでした。下の写真左から2人目が私です。あまり寒いと稽古の無い時は布団に潜り込んでいました。アンドレ・ノケ氏も私達と同じ生活をしていました。
私とアンドレ・ノケ氏とは何となく気が合い演武会での受は私がよく指名されました。この写真は池袋のデパートの屋上で演武の写真です。2年滞在したと思います。彼はフランスに帰国後合気道の普及に専念されました。
下の写真に写っている田村信義氏、野呂昌道氏もフランスに昭和40年頃フランスに渡り合気道の普及、発展に努力されました。その為に、現在ではフランスの合気道人口は日本に匹敵するほど多いいといわれています。
アンドレ・ノケ氏が帰国の時に、私にもフランスに来ないかと誘われた事も思い出します。20年位後にアンドレ・ノケ氏が再来日した時に日本のフランス大使館から電話が私に有り、アンドレ・ノケ氏が私に是非会いとの事で逢いに行った記憶が有ります。
今回、アンドレ・ノケ氏の関係者が持ってきた写真は、私も初めて見る写真です。又私のアルバムに張って有る写真も掲載します。
20歳の頃の私達の姿と当時の本部道場を見て下さい。
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ベルリンの壁崩壊30年
http://shihan.exblog.jp/30916075/
2019-11-23T18:15:00+09:00
2019-11-25T11:09:07+09:00
2019-11-23T18:15:18+09:00
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明治大学合気道部の後輩、浅井勝昭師範昭和38年(1936年)大学卒業と同時に、時の本部道場長植芝吉祥丸先生の要請で合気道指導の為にドイツに初めて派遣されました。
当時のドイツ武道界は柔道連盟が強力な権限を持っていて、柔道場を使用して合気道の稽古をしようとすると、合気道は柔道連盟の傘下に入らなければ稽古させないという通達が柔道連盟から出ました。浅井師範は合気道と柔道は違うものだという強力な信念から、柔道連盟の傘下を拒否しました。ドイツ全土の柔道の道場使用が出来ず稽古場確保に苦慮したそうです。
1年、2年と困窮した生活の中、稽古場確保に奔走しました。少しづつ理解者が出てきて、私が1977年夏に訪問した時にはドイツ全土に立派な合気道組織が確立されて居ました。浅井師範の努力、苦労に頭が下がりました。
私のドイツ滞在中ベルリンの道場からも是非ベルリンに指導に来て下さいと要望が有りました。私も東西分離のベルリンを見ることに興味が有りましたので、喜んで指導に行きました。稽古後観光に連れて行ってくれました。私が東ドイツに行きたいからというと駅に連れて行ってくれました。
地下鉄で山手線みたいにベルリンの地下を電車は幾つかの駅を回っています。東ベルリン地区の一つの駅だけ封鎖が解除されていました。外国人と特別なビザを持ったドイツ人だけが駅の改札を出て東ベルリンへ入ることが出来ます。私は東ベルリンに観光に行ってきました。当時の東ベルリンは戦火の後がまだまだ復興されておらず、第二次世界大戦で破壊されたままの場所が多く残されていました。東西ベルリンの経済格差が素人の私にも歴然と分かりました。
この様な事をテレビを見ていてふと思い出しました。
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高野山とホテル浦島宿泊旅行 その2
http://shihan.exblog.jp/30828577/
2019-10-14T15:11:00+09:00
2019-10-16T16:09:56+09:00
2019-10-14T15:11:09+09:00
shihan_aikido
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4月に成り、家で稽古以外はぶらぶらしていました。父が「保雄、仕事は」と聞かれました。怒られるかと思い小さな声で「無い」と答えると父から、意外な言葉が返ってきました。一言「遊んでろ」です。直ぐ上の兄貴は日比谷高校から慶応大学工学部で特待生、学費免除、入社する会社から奨学金まで支給されていました。(後に工学博士、農学博士を取り、日本の紙関係の最高権威者に成りました。)期待はそちらに向いていましたので、私の事は好きな事を遣らせようと考えていたらしいです。
時間が有りますので、一日中本部道場で稽古をして内弟子同様の生活を送りました。当時,日本人は、ヨーロッパ、アメリカに追いつけ、追い越せと一生懸命働きだしました。テレビのコマーシャルに「24時間戦えますか」の標語が出たくらいです。
社会には経済的に少しずつ余裕が出てきました。合気道も新聞や雑誌に新しい武道として取り上げられ稽古する場所が少しずつ増えてきました。吉祥丸先生は若い私達を指導者として派遣したのです。22〜3歳の元気盛りですので、学生の部活の様な稽古をして、一般人にとっては乱暴な稽古なので「小林は指導者には適さない、と苦情の電話が何回も本部に有った様です。有楽町のガード下に在った産経学園合気道教室(隣はボディビル教室で作家の三島由紀夫氏がきていました)では土曜日の午後の稽古で3週間連続して救急車を呼んだ時にはさすがに吉祥丸先生に怒られました。
当時大卒の給料が1万2~3,000円でしたが本部道場が私に支給されたのは1,000円でした。私は合気道の稽古が出来れば良いので苦に成りませんでした。当時は合気道本部道場もそれほど経済的には困窮していました。
結婚して弘明が生まれたとき、女神様が「こんな給料では生活できない、あなたは、弟子だから言えないでしょうが、私は赤旗を持って本部道場に座り込む」と言い出しました。私は馬鹿だから当時の吉祥丸道場長にこの話をしたら「小林君の奥さんは怖いからと」1000円昇給させてくれました。
1960年代の学生運動が私の運命を変えました。1年、2年と大学が閉鎖され合気道部員の稽古出来なく成りました。大学で稽古出来ないなら小平の自宅駐車場に道場を創り稽古しようと考えました。即実行です。自分で建築し出しました。1969年の年賀状に4月道場開きをするから来て下さいと書いて年賀状を出しました。不思議と協力者が表れて4月に夢にまで見た合気道小林道場が開設して、学生達と稽古を開始しました。
学生達と合気道を楽しそうに稽古している姿をみて、通り掛った人が私の子供に稽古を教えてとか自分も稽古したいと自然に増えていき、世界40ヵ国と交流有る小林道場が生まれたのです。
これも、佐居守氏との出会いが無ければ現在の合気道小林道場はなかったのです。人と人との出会いを大切にし、好きな合気道で生活出来たのは妻である保子の理解と家族、親、そして大学合気道部の協力が有ったからです。心より感謝いたします。皆さん自分の夢を色々と持っていると思います。夢を人に語り、実行に移す努力をして下さい。思い続ければ必ず達成できます。
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高野山とホテル浦島宿泊旅行 その1
http://shihan.exblog.jp/30773121/
2019-09-06T09:59:00+09:00
2019-09-06T09:59:30+09:00
2019-09-06T09:59:30+09:00
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昨年(2018年)9月に明治大学合気道部を私と一緒に創設した佐居守氏が亡なったと家族から連絡が有りました。彼の遺言で葬式、香典、墓無用との事で焼香にも行けませんでした。考えて見れば彼が居なければ合気道の稽古はしていましたが、明治大学体育会合気道部を結成しなかったかも知れません。そして、現在世界40ヵ国と交流の有る合気道小林道場の存在も無かったと思います。
私は昭和30年(1955年)4月に明治大学に入学と同時に合気道本部道場に入門し、合気道の稽古を始めました。1年後、本部道場にプロレスラーの様な体格をしていて、物凄い力の強い明大生1年生、佐居守君が入門してきました。同窓という事で直ぐ友達になりました。彼の実家は和歌山紀州勝浦出身で、家はマグロ船の網元です。和歌山新宮に合気道の道場が有り、そこで高校時代から稽古していたのです。(時代が少しずれますが、バーバラ師範が来日し始めて合気道を住み込み修行で稽古していた道場です。)
私は毎日の様に、本部道場に稽古に行っていましたので、自由稽古の時に佐居君と稽古しました。諸手取呼吸法の時など強い力で握られると、握られた私の指が自然に「ちぢむ」くらいの力です。一寸と頑張られると技は掛かりません。
しかし、毎日、毎日稽古していると、慣れてきて相手の弱点が分かるようになってきました。力の強い相手に対する対処法が身に付いてきたのです。また当時から私はタフで疲労回復が人より早かったのです。受け身を素早く取り、相手に息つく暇なく受け身を取らせるのです。相手のスタミナがきれ、息が上がって来ます。「小林、お前と稽古すると疲れる」と言わすのが快感でした。 このスタミナの素は毎日の皇居の回りを走ったからです。
私の実家は九段の坂を登り切った角から2軒目です。今では皇居の回りを走る人達は沢山いますが、昭和30年頃は誰も居ません。早朝、自宅から皇居一周4キロを走り、本部道場の朝6時半からの稽古に行きました。当時は東京中に都電が走っていて、自宅前から12番に乗ると「新宿歌舞伎町」が終点です。そこで、11番に乗り換え「抜け弁天前」で降りると本部道場は直ぐです。この朝稽古に通っていたのが私の人生を変えてしまったのです。
次回に続く.......
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日比谷公会堂の思い出
http://shihan.exblog.jp/30710163/
2019-07-25T16:37:00+09:00
2019-07-25T16:37:50+09:00
2019-07-25T16:37:50+09:00
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植芝盛平翁先生は演武会の2、3日前から茨城県岩間の道場から上京されます。内弟子の私達は平常の稽古の他に演武会の準備と盛平翁のお世話で、てんてこ舞いの忙しさです。
演武会の当日、私は盛平翁先生のお世話係の担当に成りました。演武会は1時から始まります。道場長の植芝吉祥丸先生、内弟子達は本部道場には午前10時頃には準備の為に出かけてしまいました。道場には盛平翁先生と私と二人きりです。昼食を済まし、13時頃に成ると盛平翁先生は「わしは演武会に行かなければ」と言いだしました。
盛平翁先生の出番は16時頃です。15時半にタクシーで出れば充分です。盛平翁先生が会場に着くと、そのまま演武会場に出てしまいます。そうすると、以後の演武者が演武出来なく成ります。私達内弟子達の演武は出来なくても問題は起こりませんが、地方からの演武者が演武できないと大問題になります。本当に引き留めるのに苦労しました。
タクシーの運転手に言って遠回りをしてもらった事も有ります。翁先生から「新宿から日比谷に行くのに、何故上野を通るのだ」と怒られた事も有りました。今は楽しい思い出になっています。
合気道探求第58号が発売になりました。
http://www.aikikai.or.jp/about/information/detail.html?news_id=255
私のインタビュー記事が載っています。一般書店でも購入できますが、道場で一括で購入するため購入希望者を募っています。希望者は指導員まで申し出て下さい。
サイン入りでお渡しします。
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アエラwithキッズの取材
http://shihan.exblog.jp/30688935/
2019-07-11T16:15:00+09:00
2019-07-11T16:15:05+09:00
2019-07-11T16:15:05+09:00
shihan_aikido
未分類
質問項目
1:武道としての「合気道」の「道」とは何ですか。
2:この教室を始めた理由とお稽古内容を教えてください。
3:子どもはここで何を学び、どのような力を身につけていきますか?また先生はどのような力を育てたいとお考えですか?
4:子どものモチベーションを保つために、保護者は子どもにどのように関わるのがいいでしょうか?
5:レッスン時間以外で、子どもはどのような練習、努力が必要ですか?
6:可能でしたら、レッスン以外にかかる費用(試験、大会出場など)の目安を教えてください。
指導する先生のへの質問は以上ですが、その他に通わせている保護者や通って来ている子供達へも直接インタビューしていました。その内容は雑誌が出版されてから読んで下さい。
私が皆さんに知らせたかった事は、取材に来た女性記者が思わずつぶやいた一言です。
合気道小林道場の子供クラスの指導を見て「心からホットしました。試合の有る野球、サッカー、剣道、相撲、空手等子供の練習を取材して来ましたが、子供を練習させている親御さん達は本当に子供の為を思い熱心に子供達と向き合っています。指導する先生や見学している親御さん達が子供達に向かって、大きな声で叱咤激励するのは良い事と思います。しかし、段々と白熱してくると怒号、罵声を浴びせる様な時が有ります。『元気が無い、もっと早く、機敏に動け、よそ見をするな、そんなのが取れないのか』・・・等々です。」
合気道の稽古を見て、「指導する笠原先生と子供達が、笑顔で楽しみながら技の稽古、そして、結構激しい補助体操をしています。本当に感激しました」と言ってくれました。合気道の稽古の良さを的確に表現した一言です。
事前に電話で取材の依頼を受けた弘明道場長が記者に聞きました。「何故、小林道場を選んで取材に来たのですか?」回答は「各道場のホームページを見て来ました。合気道小林道場のホームページが分かりやすく、かなり大きな組織で稽古時間も多いいので取材に来ました。実は私田無に住んでいます、近いので」と答えてくれました。どんな記事になるのか楽しみです。
私は「是非合気道の稽古をして下さい。」と言っておきました。
雑誌が発行されたら、皆さんにお知らせします。
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ストックホルム弥栄道場講習会
http://shihan.exblog.jp/30559516/
2019-04-24T10:56:00+09:00
2019-04-24T11:00:04+09:00
2019-04-24T10:56:33+09:00
shihan_aikido
未分類
ストックホルムの空港にはスウェーデンの著名な写真家マグナス四段が出迎えてくれました。そこで、以前内弟子をしていた中国の林景娣初段が北京から先に着いていて合流しました。北京からストックホルムまでは直行便が有り、多くの中国人が世界中を旅行しているのを実感しました。
マグナス氏の車はトヨタの普通乗用車だったので、大きな3個のスーツケースが積めるか心配しましたが、座席にも置いて何とかなりました。
車が走り出すと林ちゃんが「先生、ビザ申請代、2万円そして航空券代7万円
合計9万円です」と請求されました。中国人が海外旅行でビザを旅行取るときは
大変で預金が通帳に50万円以上、招聘状等などの書類が必要だそうです。半年近く掛ってやっとビザが下りました。
林ちゃんのストックホルム行きは彼女が内弟子として小平道場に2年間滞在中に一生懸命稽古と道場の雑用、私の中国語の先生、そして秩父34観音霊場巡りに同行してくれた御褒美として費用を出すと約束したのです。小遣いを含めて10万円を渡しました。
私が初めてストックホルム弥栄道場に指導に行ったのはウルバンバ師範がまだ20歳前後の1973年夏です。当時、ストックホルムで合気道を指導していたのは市村俊和氏です。彼は私が指導していた東洋大学合気道部初代主将でした。ドイツに指導に行った時に、帰国を延ばしてスウェーデ、ストックホルムまで来て下さいと要請され指導しました。
稽古も無事終わり稽古人約30名と夕食時に事件が起こりました。市村師範が「私の先生が来られたので、歌を歌えと」スウェーデン人の会員に命令したのです。日本の大学では体育会の運動部では宴会の時に下級生が指名されれば、歌を歌う習慣が有ったのです。スウェーデでは勿論そんな習慣は有りませんから、誰も歌いませんでした。しばらく沈黙が続きましたが,市村師範は突然激怒して、立ち上がり稽古人に椅子を投げたり、机を引っ繰り返したりして暴れだしました。会員は誰も止め様としないので、私が見かねて「そんな馬鹿な事するな」と彼を部屋の外に引きずり出しました。
市村師範
日本では先生、先輩でもこの様な行動をとれば40年前でも大きな問題に成ったと思います。気まずい雰囲気でその場は解散となりました。翌日の稽古には私は誰も稽古に来ないと思いましたが、午前中の稽古時間に何事も無かった様に皆稽古に参加して稽古が無事終わりました。私はスウェーデ人の行動が理解出来ませんので皆に聞きました。「なぜ体も大きく力も有るのに市村師範の行動を止めなかったのだ」と聞きました。稽古参加の一人が答えてくれました。
「昔のスウェーデ人はバイキングとして各地を荒らし回った事が有るが、第一次世界戦争、第二次世界戦争には中立国の立場を守って戦争には参加していません。しかし、日本人はあんな小さい国なのに第二次世界戦争では負けたとは言え、世界を相手に4年間も戦争をしたので非常に好戦的な民族だと思っている。闘争心の強い市村師範に絶対逆らえないと思った」と答えました。
その様な経緯があり、私が指導に行った翌年、小林道場は初めてスウェーデ人のオーベ氏を内弟子として三ヶ月間受け入れました。その体験を踏まえて小林道場も外国人の内弟子を積極的に受け入れ始め、20歳前後のウルバンバ氏、ウルフ氏が内弟子として2年間修行に来ました。まだ弘明道場長が中学生の時です。帰国後ウルバンバ師範、ウルフ師範は小林道場傘下の40畳の「弥栄道場」を開設し小林道場の傘下道場になりました。
左:ウルフ氏 右:ウルバン氏
ストックホルムはスウェーデの首都で戦災を受けてないので古い建物が整然と残っています。道場から歩いて20分ぐらいで行ける市庁舎は皆さんが良く知っているノーベル賞の授賞式が行われれます。道場は中心街の古い建物の地下に有ります。地下室ですが広さは約100畳、男女の更衣室、サウナそして食堂兼炊事場を備えた道場になっています。
また、ヨーロッパの合気道小林道場の中心道場として、ウルバンバ師範がまとめてくれています。私や弘明道場長が指導に行った時には、多くの国の人達が集まる拠点となっています。合気道小林道場傘下の皆さん是非機会が有りましたらストックホルムの弥栄道場に行って下さい。
スウェーデンでザリガニを食べる若かりし頃の総師範
追伸、弘明道場長が83歳の私を心配して、孫の香穂2段を付き添い派遣した事が役に立ちました。スウェーデンでは今やカード時代、現金は受け取りません。買い物をしたときに私のカードを出しましたが預金不足で使えませんでした。銀行口座に預金を忘れたのです。食事、買い物すべて孫香穂の後に付いて回っていました。「みじめ、みじめ、みじめ」でした。反省・・・・・・
講習会の詳細は林ちゃんの活動報告もご覧下さい。
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年頭のご挨拶
http://shihan.exblog.jp/30366116/
2019-01-16T23:00:00+09:00
2019-01-16T23:08:55+09:00
2019-01-16T23:00:21+09:00
shihan_aikido
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私が合気道を稽古しているというと、世間の一般の人達には 何段ですか? と良くきかれます。段、級の高低で修行の高低を判断の基準にして居るからです。私は 生まれた時から九段の上です と答えにます。東京都千代田区の日本武道館の有る九段坂を上がり切った所が実家で生まれた所です。「え・・」と云う顔をしますが冗談だと分かると皆さん笑ってくれます。
昔の武術の制度は「切紙」「目録」「免許」「皆伝」 などでしたが、柔道創始者である加納治五郎先生が普及の為に段制度を考え出したものです。この制度により修行の目標ができ、講道館柔道が世間に普及しました。良い制度ですので各武道関係者も段制度を取り入れるように成りました。 私が合気道の稽古を始めたのは昭和30年(1955年)です。当時は合気道本部道場に稽古に来る人は50名も居なかったと思います。当時の本部道場長、植芝吉祥丸先生は皆さんの顔と名前が分かるので昇段は新年1月15日の鏡開きの日に昇段者の名前を掲示しました。
級、段の審査制度が始まったのは昭和33年頃だったと思います。合気道本部道場も稽古人が増えると共に、支部道場もふえてきました。審査制度を採り入れました。初めの審査は5級からで受験者の相手には内弟子が受身を取りました。受験者の相手が内弟子ですので格上です。気に入らない相手だと技の受け身の時に意地悪し一緒に相手を倒したりしますので、審査近くになると、受験者が受身を取る内弟子にご馳走してくれる様になりました。内弟子達はそれが本当に楽しみでした。合気道の審査にもこんなのどかな時代が有ったのです。
植芝吉祥丸先生は大学合気道の普及に奔走しました。私も母校、明治大学に合気道部を設立しました。各大学合気道部員は全国から集まります。その人達が卒業して故郷各地に帰郷して一部の人達は合気道の稽古を始めました。各道場や支部で段、級の認定が必要に成りますので、審査は本部指導員が審査に立ち会うか、以前植芝門下で修行した人達が立ち会いました。 大学卒業後本部道場指導部員になりました。植芝吉祥丸先生に言われて、現在行われている審査の基本を私と故藤平明師範と二人で原案を作りました。大学合気道部4年間での稽古では弐段までと言う基本もその一つです。 合気道小平道場が発足したのは50年前です。3年後に所沢道場そして八王子道場、元住吉道場と次々開設しました。これには大学合気道部の卒業生が2,3年経つ仕事を辞め小平道場に住み込んで来たからです。その生活費を出す為に支部道場が増えていきました。初めは道場単位で審査していましたが、1年ぐらい経つと審査を受ければ合格という雰囲気に成ってきました。各道場での実力格差も出てきました。
この雰囲気を打開するために私は頭を悩ましました。色々考えた末に本部道場を借り切って全員集まって審査する事にしました。第1回目は約50名受験しました。審査で5割落としました。道場によっては全員不合格の道場が何か所も出ました。指導責任者から苦情が殺到しました。「指導者としての立場や面子をどうしてくれる?小林道場傘下から脱退する!」という苦情です。
私は「分かった、次回から考慮する」と、その場で言いました。次回の審査で私は又5割不合格としました。私としては小林道場の段、級の実力が批判されないような実力を持ってもらいたいと思ったからです。支部や傘下の会員が小林道場から離れても3歳の息子弘明と2人で始めた道場だからと又原点に返り努力すればと覚悟を決めたのです。
受験した門下生達は真剣に我々の事を考えてくれると逆に熱心に稽古し、次回の審査から自分達で納得してから受験してくれる様になりました。小林道場で受験合格した級、段はその実力は国内外の合気道界で何処に行っても納得通用するような規定にしました。そして受験後不合格者は一定期間受験できない規約をも創りました。今でも小林道場の指導部は審査の時この信念を貫いています。受験者はしっかり稽古をして自信を持って心して受験して下さい。]]>
群馬県富岡の「龍光寺」道場
http://shihan.exblog.jp/29950250/
2018-07-23T19:22:12+09:00
2018-07-23T19:22:13+09:00
2018-07-23T19:22:13+09:00
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合気道龍光寺を取り仕っている神宮(旧姓、大林)千津さんは中学生の時から合気道小林道場所沢道場に入門し熱心に稽古に通ってきました。高校卒業後は幼稚園教諭の資格を取得しました。ワーキングホリデー制度を使いながら小林道場のカナダ、バンクーバー道場やカルガリーの道場に通いながら1年間の海外生活も経験しています。 アルバイトで税務署でも働いた事もあります。非常に積極的で活発な女性になりました。
縁有って群馬県と富岡市「龍光寺」の住職の息子さんと結婚しました。幼稚園の仕事、お寺の仕事そして子供中心ですが合気道の稽古も始めました。
稽古場所は保育園、幼稚園の講堂があります。そのほかに、冨岡製糸場の女工が宿泊していた別棟があります。この場所は畳が50~60枚敷ける広さが1,2階に在ります。今回はこの別棟建物の1階で稽古しました。私の指導稽古なので中高校生と大人1計で男女10名そして千津さん、内弟子の林ちゃん12名で稽古しました。
千津さんは長年小林道場で長年稽古していましたので、指導よろしきを得て生徒たちは基本が出来ていました。私はお互いに向え合わせて並べての稽古しました。一つの技が10回終わると前列の一人が移動しながらの稽古です。
子供たちに自信を持たせる為に、順番に得意な技を私が子供達の受けを先に取り投げて貰い、私が指導演武をして稽古開始しました。お互いに10回投げると一人移動する稽古法です。大人でも子供でも初心者には、この稽古法は短時間に沢山の技を指導する場合非常に効率的な指導法です。子供同士の無駄話もできません。
皆な汗を流しながらの稽古になりました。稽古終わるころには田舎の夜道を一人歩きさせられませんので親達が迎えに来ました。子供達には良い刺激の稽古に成ったと思います。
その後、千津さんからメールを貰いました。彼女の人生に対しての心構えや合気道の情熱が溢れる非常に良い文章なので本人の了解を得て活動報告に掲載させて頂きます。
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刀と言葉 その2
http://shihan.exblog.jp/29854406/
2018-06-15T17:05:00+09:00
2018-06-15T17:06:24+09:00
2018-06-15T17:05:28+09:00
shihan_aikido
未分類
合気道小林道場では剣、杖を審査規定に入れています。しかし、木刀で行いますので、基本の持ち方、構え方は行いますが部分、部分の名称などは質問された時以外は教えていません。以下の言葉はあまり知られていないですが、是非、各道場の指導者、会員は必要と思うなら仲間に知らせて下さい。
時代の流れの中で日本刀は大きく分類され
1、古刀・・・平安時代から室町末期、慶長元年
2、新新刀・・・江戸時代初期より文化、文政前まで
3, 現代刀・・・新新刀以後現代までを現代かたな
刀の各部の名称
1、銘・・・製作者の指名、出身地、居住地、製作年月日をきしたものです。
2、目釘穴・・・目釘を通す穴
3、鯉口・・・鞘の入り口部分を言います。
4、鐺・・・刀剣の鞘の末端部分
5、下緒・・・刀を帯びる際に、鞘が飛び出さないように結びつけるため
紐
6、柄(つか)・・・手で握る部分。7
7、鞘(さや)・・・刀剣の刀身の部分を納めて送られて部分。
この刀の絵は、ハンガリー出身のプロのイラストレーター、小平道場のシャニ四段に描いてもらいました。
日本刀の雑学・・宝島社からの引用
1、匕首(あいくち)に鍔 ・・・匕首に鍔があったらかっこうがつかないことから転じて、不釣り合いの事、不調和のものの例え。
2、似非侍(えせざむらい)の刀弄り・・・実力が伴っていない者ほど虚勢張って人を脅かすたとえ
3、鉛刀(えんとう)の一割・・・なまくらなかたなは一度しか切ることができない事から、自分の力を謙遜して言う言葉。
4、己の刀で己が首・・・戦いで敗れ、自分で自分のから首を落とした武士から転じて、自分がしたことで自分が苦しむことをいう。
5、剣を売り、牛を買う・・・兵時に携わる事をやめ、農業に精を出す。
6、剣を落として船を刻・・・乗っていた船から剣を落とした人が、慌てて船べりに印をつけてその下の川底を捜したという故事かった、古いものにこだわって、状況の変化におうじることができないことのたとえ
7、鞘走りより口走り・・・刀が鞘からぬけでるよりも、口がらの失言が出るほうが危険であるということ。失言の戒め
8、抜かぬ太刀の高名・・・太刀を抜かずに名を揚げるという意味で力量ありそうな人が忍耐や謙遜からそれを発揮せず、かえってほめそやされること、また、くちではあれこれいうが、力量を示した事のない人をあざける言葉
9、刃金が棟(むね)え回る・・・刃鉄がすり減って棟側にまくれて切れ味が悪くなっていくことから転じて、知恵や能力が衰えていくこと
10、初めきらめき奈良刀(ならがたな)・・・きらきらして切れそうだが、ろくに使われないうちに錆びたり刃こぼれしたりして駄目になるのが奈良刀、そこから、見かけは立派でも、すぐにすぐに役にたたなくなるものえの例え。奈良刀は室町時代に奈良付近で大量につくられた粗悪な刀
11、目の鞘がはずれる・・・抜け目ない。また、洞察力がある。
12、昔の剣、今の菜刀(ながたな)・・・若いころには有能であった人も、年をとると役に立たなくなることのたとえ、又古いものは今の役にはたたなくなることのたとえ。
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