ストックホルム弥栄道場講習会 |
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2019年 04月 24日
スウェーデンの首都ストックホムにある弥栄道場の講習会に3月25日から4月2日まで行って来ました。弘明道場長が83歳になる私を心配して、孫の香穂弐段(大学3年生)を同行する様に強く言いますので費用は私持ちで同行しました。 ストックホルムの空港にはスウェーデンの著名な写真家マグナス四段が出迎えてくれました。そこで、以前内弟子をしていた中国の林景娣初段が北京から先に着いていて合流しました。北京からストックホルムまでは直行便が有り、多くの中国人が世界中を旅行しているのを実感しました。 マグナス氏の車はトヨタの普通乗用車だったので、大きな3個のスーツケースが積めるか心配しましたが、座席にも置いて何とかなりました。 車が走り出すと林ちゃんが「先生、ビザ申請代、2万円そして航空券代7万円 合計9万円です」と請求されました。中国人が海外旅行でビザを旅行取るときは 大変で預金が通帳に50万円以上、招聘状等などの書類が必要だそうです。半年近く掛ってやっとビザが下りました。 林ちゃんのストックホルム行きは彼女が内弟子として小平道場に2年間滞在中に一生懸命稽古と道場の雑用、私の中国語の先生、そして秩父34観音霊場巡りに同行してくれた御褒美として費用を出すと約束したのです。小遣いを含めて10万円を渡しました。 私が初めてストックホルム弥栄道場に指導に行ったのはウルバンバ師範がまだ20歳前後の1973年夏です。当時、ストックホルムで合気道を指導していたのは市村俊和氏です。彼は私が指導していた東洋大学合気道部初代主将でした。ドイツに指導に行った時に、帰国を延ばしてスウェーデ、ストックホルムまで来て下さいと要請され指導しました。 稽古も無事終わり稽古人約30名と夕食時に事件が起こりました。市村師範が「私の先生が来られたので、歌を歌えと」スウェーデン人の会員に命令したのです。日本の大学では体育会の運動部では宴会の時に下級生が指名されれば、歌を歌う習慣が有ったのです。スウェーデでは勿論そんな習慣は有りませんから、誰も歌いませんでした。しばらく沈黙が続きましたが,市村師範は突然激怒して、立ち上がり稽古人に椅子を投げたり、机を引っ繰り返したりして暴れだしました。会員は誰も止め様としないので、私が見かねて「そんな馬鹿な事するな」と彼を部屋の外に引きずり出しました。 日本では先生、先輩でもこの様な行動をとれば40年前でも大きな問題に成ったと思います。気まずい雰囲気でその場は解散となりました。翌日の稽古には私は誰も稽古に来ないと思いましたが、午前中の稽古時間に何事も無かった様に皆稽古に参加して稽古が無事終わりました。私はスウェーデ人の行動が理解出来ませんので皆に聞きました。「なぜ体も大きく力も有るのに市村師範の行動を止めなかったのだ」と聞きました。稽古参加の一人が答えてくれました。 「昔のスウェーデ人はバイキングとして各地を荒らし回った事が有るが、第一次世界戦争、第二次世界戦争には中立国の立場を守って戦争には参加していません。しかし、日本人はあんな小さい国なのに第二次世界戦争では負けたとは言え、世界を相手に4年間も戦争をしたので非常に好戦的な民族だと思っている。闘争心の強い市村師範に絶対逆らえないと思った」と答えました。 その様な経緯があり、私が指導に行った翌年、小林道場は初めてスウェーデ人のオーベ氏を内弟子として三ヶ月間受け入れました。その体験を踏まえて小林道場も外国人の内弟子を積極的に受け入れ始め、20歳前後のウルバンバ氏、ウルフ氏が内弟子として2年間修行に来ました。まだ弘明道場長が中学生の時です。帰国後ウルバンバ師範、ウルフ師範は小林道場傘下の40畳の「弥栄道場」を開設し小林道場の傘下道場になりました。 ストックホルムはスウェーデの首都で戦災を受けてないので古い建物が整然と残っています。道場から歩いて20分ぐらいで行ける市庁舎は皆さんが良く知っているノーベル賞の授賞式が行われれます。道場は中心街の古い建物の地下に有ります。地下室ですが広さは約100畳、男女の更衣室、サウナそして食堂兼炊事場を備えた道場になっています。 また、ヨーロッパの合気道小林道場の中心道場として、ウルバンバ師範がまとめてくれています。私や弘明道場長が指導に行った時には、多くの国の人達が集まる拠点となっています。合気道小林道場傘下の皆さん是非機会が有りましたらストックホルムの弥栄道場に行って下さい。 追伸、弘明道場長が83歳の私を心配して、孫の香穂2段を付き添い派遣した事が役に立ちました。スウェーデンでは今やカード時代、現金は受け取りません。買い物をしたときに私のカードを出しましたが預金不足で使えませんでした。銀行口座に預金を忘れたのです。食事、買い物すべて孫香穂の後に付いて回っていました。「みじめ、みじめ、みじめ」でした。反省・・・・・・ 講習会の詳細は林ちゃんの活動報告もご覧下さい。 #
by shihan_aikido
| 2019-04-24 10:56
2019年 01月 16日
新年おめでとうございます。 新しい年になり、合気道本部道場の鏡開きにおいて推薦昇段者が発表になりました。 国内外の小林道場関係者も多くの方が昇段されました。誠におめでとうございます。 私の好きな言葉は 「一人でも多くの人に合気道を」と 「段々に 願いをかけて 段々の 段々高き 段を昇らん」 「段々に 段をのぼれば 段々の 段は段々 険しかりけり」が有ります。 私が合気道を稽古しているというと、世間の一般の人達には 何段ですか? と良くきかれます。段、級の高低で修行の高低を判断の基準にして居るからです。私は 生まれた時から九段の上です と答えにます。東京都千代田区の日本武道館の有る九段坂を上がり切った所が実家で生まれた所です。「え・・」と云う顔をしますが冗談だと分かると皆さん笑ってくれます。 昔の武術の制度は「切紙」「目録」「免許」「皆伝」 などでしたが、柔道創始者である加納治五郎先生が普及の為に段制度を考え出したものです。この制度により修行の目標ができ、講道館柔道が世間に普及しました。良い制度ですので各武道関係者も段制度を取り入れるように成りました。 私が合気道の稽古を始めたのは昭和30年(1955年)です。当時は合気道本部道場に稽古に来る人は50名も居なかったと思います。当時の本部道場長、植芝吉祥丸先生は皆さんの顔と名前が分かるので昇段は新年1月15日の鏡開きの日に昇段者の名前を掲示しました。 級、段の審査制度が始まったのは昭和33年頃だったと思います。合気道本部道場も稽古人が増えると共に、支部道場もふえてきました。審査制度を採り入れました。初めの審査は5級からで受験者の相手には内弟子が受身を取りました。受験者の相手が内弟子ですので格上です。気に入らない相手だと技の受け身の時に意地悪し一緒に相手を倒したりしますので、審査近くになると、受験者が受身を取る内弟子にご馳走してくれる様になりました。内弟子達はそれが本当に楽しみでした。合気道の審査にもこんなのどかな時代が有ったのです。 植芝吉祥丸先生は大学合気道の普及に奔走しました。私も母校、明治大学に合気道部を設立しました。各大学合気道部員は全国から集まります。その人達が卒業して故郷各地に帰郷して一部の人達は合気道の稽古を始めました。各道場や支部で段、級の認定が必要に成りますので、審査は本部指導員が審査に立ち会うか、以前植芝門下で修行した人達が立ち会いました。 大学卒業後本部道場指導部員になりました。植芝吉祥丸先生に言われて、現在行われている審査の基本を私と故藤平明師範と二人で原案を作りました。大学合気道部4年間での稽古では弐段までと言う基本もその一つです。
合気道小平道場が発足したのは50年前です。3年後に所沢道場そして八王子道場、元住吉道場と次々開設しました。これには大学合気道部の卒業生が2,3年経つ仕事を辞め小平道場に住み込んで来たからです。その生活費を出す為に支部道場が増えていきました。初めは道場単位で審査していましたが、1年ぐらい経つと審査を受ければ合格という雰囲気に成ってきました。各道場での実力格差も出てきました。 この雰囲気を打開するために私は頭を悩ましました。色々考えた末に本部道場を借り切って全員集まって審査する事にしました。第1回目は約50名受験しました。審査で5割落としました。道場によっては全員不合格の道場が何か所も出ました。指導責任者から苦情が殺到しました。「指導者としての立場や面子をどうしてくれる?小林道場傘下から脱退する!」という苦情です。 私は「分かった、次回から考慮する」と、その場で言いました。次回の審査で私は又5割不合格としました。私としては小林道場の段、級の実力が批判されないような実力を持ってもらいたいと思ったからです。支部や傘下の会員が小林道場から離れても3歳の息子弘明と2人で始めた道場だからと又原点に返り努力すればと覚悟を決めたのです。 受験した門下生達は真剣に我々の事を考えてくれると逆に熱心に稽古し、次回の審査から自分達で納得してから受験してくれる様になりました。小林道場で受験合格した級、段はその実力は国内外の合気道界で何処に行っても納得通用するような規定にしました。そして受験後不合格者は一定期間受験できない規約をも創りました。今でも小林道場の指導部は審査の時この信念を貫いています。 受験者はしっかり稽古をして自信を持って心して受験して下さい。 #
by shihan_aikido
| 2019-01-16 23:00
2018年 07月 23日
6月25日から26日まで世界遺産で有名な群馬県富岡製糸場から歩いて5分位の所に在る「合気道龍光寺道場」に内弟子の林ちゃんと一緒に稽古指導に行ってきました。
合気道龍光寺を取り仕っている神宮(旧姓、大林)千津さんは中学生の時から合気道小林道場所沢道場に入門し熱心に稽古に通ってきました。高校卒業後は幼稚園教諭の資格を取得しました。ワーキングホリデー制度を使いながら小林道場のカナダ、バンクーバー道場やカルガリーの道場に通いながら1年間の海外生活も経験しています。 アルバイトで税務署でも働いた事もあります。非常に積極的で活発な女性になりました。 縁有って群馬県と富岡市「龍光寺」の住職の息子さんと結婚しました。幼稚園の仕事、お寺の仕事そして子供中心ですが合気道の稽古も始めました。 稽古場所は保育園、幼稚園の講堂があります。そのほかに、冨岡製糸場の女工が宿泊していた別棟があります。この場所は畳が50~60枚敷ける広さが1,2階に在ります。今回はこの別棟建物の1階で稽古しました。私の指導稽古なので中高校生と大人1計で男女10名そして千津さん、内弟子の林ちゃん12名で稽古しました。 千津さんは長年小林道場で長年稽古していましたので、指導よろしきを得て生徒たちは基本が出来ていました。私はお互いに向え合わせて並べての稽古しました。一つの技が10回終わると前列の一人が移動しながらの稽古です。 子供たちに自信を持たせる為に、順番に得意な技を私が子供達の受けを先に取り投げて貰い、私が指導演武をして稽古開始しました。お互いに10回投げると一人移動する稽古法です。大人でも子供でも初心者には、この稽古法は短時間に沢山の技を指導する場合非常に効率的な指導法です。子供同士の無駄話もできません。 皆な汗を流しながらの稽古になりました。稽古終わるころには田舎の夜道を一人歩きさせられませんので親達が迎えに来ました。子供達には良い刺激の稽古に成ったと思います。 その後、千津さんからメールを貰いました。彼女の人生に対しての心構えや合気道の情熱が溢れる非常に良い文章なので本人の了解を得て活動報告に掲載させて頂きます。 #
by shihan_aikido
| 2018-07-23 19:22
2018年 06月 15日
先回の「総師範ブログ」で我々が日常生活で使っている刀から出た「刀と言葉」を書いたら、非常に為に成ったと3月の審査後の「合格祝賀会兼残念会」で言われました。「刀と言葉」の続きを書いて下さい」と言われました。
合気道小林道場では剣、杖を審査規定に入れています。しかし、木刀で行いますので、基本の持ち方、構え方は行いますが部分、部分の名称などは質問された時以外は教えていません。以下の言葉はあまり知られていないですが、是非、各道場の指導者、会員は必要と思うなら仲間に知らせて下さい。 時代の流れの中で日本刀は大きく分類され 1、古刀・・・平安時代から室町末期、慶長元年 2、新新刀・・・江戸時代初期より文化、文政前まで 3, 現代刀・・・新新刀以後現代までを現代かたな 刀の各部の名称 1、銘・・・製作者の指名、出身地、居住地、製作年月日をきしたものです。 2、目釘穴・・・目釘を通す穴 3、鯉口・・・鞘の入り口部分を言います。 4、鐺・・・刀剣の鞘の末端部分 5、下緒・・・刀を帯びる際に、鞘が飛び出さないように結びつけるため 紐 6、柄(つか)・・・手で握る部分。7 7、鞘(さや)・・・刀剣の刀身の部分を納めて送られて部分。 ![]() この刀の絵は、ハンガリー出身のプロのイラストレーター、小平道場のシャニ四段に描いてもらいました。 日本刀の雑学・・宝島社からの引用 1、匕首(あいくち)に鍔 ・・・匕首に鍔があったらかっこうがつかないことから転じて、不釣り合いの事、不調和のものの例え。 2、似非侍(えせざむらい)の刀弄り・・・実力が伴っていない者ほど虚勢張って人を脅かすたとえ 3、鉛刀(えんとう)の一割・・・なまくらなかたなは一度しか切ることができない事から、自分の力を謙遜して言う言葉。 4、己の刀で己が首・・・戦いで敗れ、自分で自分のから首を落とした武士から転じて、自分がしたことで自分が苦しむことをいう。 5、剣を売り、牛を買う・・・兵時に携わる事をやめ、農業に精を出す。 6、剣を落として船を刻・・・乗っていた船から剣を落とした人が、慌てて船べりに印をつけてその下の川底を捜したという故事かった、古いものにこだわって、状況の変化におうじることができないことのたとえ 7、鞘走りより口走り・・・刀が鞘からぬけでるよりも、口がらの失言が出るほうが危険であるということ。失言の戒め 8、抜かぬ太刀の高名・・・太刀を抜かずに名を揚げるという意味で力量ありそうな人が忍耐や謙遜からそれを発揮せず、かえってほめそやされること、また、くちではあれこれいうが、力量を示した事のない人をあざける言葉 9、刃金が棟(むね)え回る・・・刃鉄がすり減って棟側にまくれて切れ味が悪くなっていくことから転じて、知恵や能力が衰えていくこと 10、初めきらめき奈良刀(ならがたな)・・・きらきらして切れそうだが、ろくに使われないうちに錆びたり刃こぼれしたりして駄目になるのが奈良刀、そこから、見かけは立派でも、すぐにすぐに役にたたなくなるものえの例え。奈良刀は室町時代に奈良付近で大量につくられた粗悪な刀 11、目の鞘がはずれる・・・抜け目ない。また、洞察力がある。 12、昔の剣、今の菜刀(ながたな)・・・若いころには有能であった人も、年をとると役に立たなくなることのたとえ、又古いものは今の役にはたたなくなることのたとえ。 #
by shihan_aikido
| 2018-06-15 17:05
2018年 02月 10日
私は本部道場内弟子時代に植芝盛平翁先生が合気道の技の動きは剣の動きから出ている「こうじゃ」と声を出しながら演武していた事を思い出します。植芝盛平翁先生と剣やの相手を指名された時、一切約束がなくその時、その場の翁先生の雰囲気や気配で剣、杖での攻撃をしなければなりません。剣、杖が苦手で体術の方が好きな私は翁先生の相手をするとよく怒られました。
![]() ある本を読んでいたら、日常我々に使っている言葉の中に刀がもとになっているものが沢山でてきました。刀がいかに私達の生活に密着していたかを教えてくれます。皆さんに知らせる為にブログに書きました。 1「あいずちをうつ」相槌を打つ・・・鍛冶で職人達が交互に槌を打ち合わすことから、相手に同意をしめしたり、話に調子を合わせてりする事を言う。 2「おっとりがたな」押っ取り刀・・・急ぎの用事で腰に刀を差す間もなく、手に取ること。 大急ぎの事「押っ取り刀で駆けつける」の様に使う。 3「おりがみつき」折り紙つき・・・折り紙は昔、刀の鑑定を行っていた本阿弥家が正真のものに発行した鑑定書の事から、間違いない物・人物の事を言う。 4「きゅうばしのぎ」急場凌ぎ・・・急場とは「急刃」であり、戦場で刀の刃が欠けたときに使う、取り合えず戦える切れ味の悪い刀の事、よってその場切り抜ける意となり「急場」と転じた。 5「さやあて」鞘当て・・・昔、武士同志がすれちがったとき、お互いの鞘がぶつかることでいさかいに成ることが有った。此の事から些細な事で喧嘩を売ることを言う。 6「じがねがでる」地金が出る・・・刀は心金というやわらかい鉄を、皮鉄という硬い鉄で包み込む構造になっている。地金が出るとは何度も研ぎを繰り返し、心金が出てしまったこの意で、この事から表を取り繕っていたものが取れ、本性が出てしまった事を言う。 7「しのぎをけずる」鎬を削る・・・刀の鎬(刀と稜線)が激しくぶつかり、削れるほどの激戦(白兵戦)の事。 8「すっぱぬく」素っ破抜く・・・素破は忍者の事で刃物を不意に抜き放つ事から、隠し事や秘密を暴いて明るみ出す事の意。 9「せっぱつまる」切羽つまる・・・切羽は刀の鍔がガタガタしない様に押さえる金具。この事から身動きできないほど追い詰められた事を言う。 10「そりががあわない」反りが合わない・・・刀はそれぞれ反りが違い、鞘もその刀専用で作られている。その為他の鞘にいれようとしても入らない。この事から相性が合わない事を言う。 11「たちうち」太刀打ち・・・太刀で打ち合って戦うことから、転じて物事を張り合って競争することになった。 12「たちおうじょう」立往生・・・たったまま死ぬ事が本来のいみ。「弁慶の立ち往生」の話から、現在の意となる。 13「たんとうちょくにゅう」単刀直入・・・単刀、一振りの刀(一人)で敵陣に切り込み事。この事から前置き無く、直接本題に入る事を言う。 14「つけやきば」付け焼き刃・・・刃のなくなった刀や鈍刀に、焼き刃だけを付け足した事から、間に合わせに習い覚えること。 15「つばぜりあい」鍔ぜりあい・・・お互いに打ち込んだ刀を鍔で受け止めたまま、一歩も譲らす押し合う事から、力の拮抗した激戦の事。 16「てんかのほうとう」天下の宝刀・・・家宝として代々伝わってきた名刀と云う事から普段使わないがいよいよの時に持ち出す、とっておき物・手段の事を言う。 17「とんちんかん」トンテンカンという合槌の調子がはずれてトンチンカン聞こえたことから、物事の辻褄が合わない事をいう。 18「ふところかたな」懐刀・・・刀とは別に懐に入れて有る最終護身用短刀で、このことから秘密の計画などに参加する側近意味になった。 19「なまくら」鈍・・・焼きがちっとも入らない半焼けの鈍刀の事、転じて力が弱いことや腕前が未熟なことの意で使われるようになった。 20「ぬきさしならぬ」抜き差しならぬ・・・もともと刀が錆びて鞘から抜けない事。解決する考えが無いことを言う。 21「ぬきうち」抜き打ち・・・刀を抜いたとたんに斬り付ける事で、前ぶれも無くいきなり何かをする事。 22「めぬきどうり」目貫き通り・・・目貫は刀の柄、真ん中近の一番目立つ処に有る金具で、この事から町で一番にぎやかな通りを意味する。 23「もとのさやにおさまる」元の鞘に収まる・・・刀は他の鞘になかなか入らないが、元の鞘にはスンナリ入る事から、仲違いした者同士が元通り一緒になる事をいう。 24「やきをいれる」焼きを入れる・・・刺激をあたえて、たるんでいる者をきちんとさせる事。 25「やさぐれ」・・・「やさぐれ」の「やさ」は「鞘(さや)」の反転語。「やさぐれ」の「ぐれ」は外れること。鞘を「家」にたとえて、家でする事や家出人を「やさぐれ」おさまる」と言った。 #
by shihan_aikido
| 2018-02-10 21:42
2018年 01月 23日
新しい年を迎え皆さんは、会員諸兄、老いも若きも自分の人生に向の新しい目標に向かって歩み出したと思います。でも「光陰の如し」で一寸手を抜くと総師範ブログも1ヵ月近く書いていません。 年末最後の総師範ブログ、「9日間の静養」で書きましたが、昨年末の私は防衛医科大学病院に入院させられました。身体の方の血液検査は全て異常なし、81歳の値とは思えないと検査技師も驚いていました。しかし、足の動脈瘤から出た皮膚病が足以外に広がり熱と痛みが出て歩行も困難に成りました。防衛医科大学病院皮膚科の医師は私の足を見た医者はその場で入院を宣告しました。医者に言わせると歩き過ぎで皮膚病が急に悪化です。家庭での治療は困難と見て、その事での入院を決めました。年末の9日間入院で、現在は足の皮膚病は塗り薬を朝晩二回塗るだけです。医者が出された薬を塗ると直ぐ腫れが引きました。元気に成りました。 自分でも体力とか気力は徐々に降下して行くと思っていましたが突然来ます。昨年末は朝稽古無い時は20キロ歩いたり、秩父お遍路で山道を歩きとしたりしていました。しかし、新年に明けから小平道場から小平駅まで15分歩くのが億劫に成りバスに乗るか、駅から道場までバスの待ち時間が有るとタクシーでの帰宅が多くなりました。平常通り稽古指導はしていますので、体力的には駅、道場間を歩くのは何の問題も無いはずです。しかし、「真冬で寒いので」と自分に甘える考えを前面に打ち出しての行動です。その原因は僅か9日間の入院です。自分自身の心の弱さに深く反省をしています。 誰でも何歳に成っても体力、気力を鍛える気持ち有ります。若い気分に成って新年からなどと、いきなり筋トレなど遣り出すと1、2ヵ月後に深く後悔する事に成ります。気持ちは若くても体が付いていけません。先ず膝に来、そして全身の筋肉痛です。殆どの人、特に若い時に運動部で鍛えた人達はこんなはずでは無かったと云う後悔の念に陥ります。道場入門者の中にも、学生時代合気道部で激しい稽古をしていたという中年男性が道場に入門してきます。技は忘れていても、受身は体が覚えていて一応できます。いきなり皆と一緒に稽古する様な人は長続きしません。最近は中年から入門する人が増えています。その様な人は現在の体力を5年後、10年後に維持していく考えに変えなければなりません。 稽古する人は自分自身の体力、体調を良く考慮して怪我の無い様に長く稽古を続けて下さい。 そして合気道小林道場のモットー「一人でも多くの人に合気道を」で合気道の環を広げて行きましょう。 #
by shihan_aikido
| 2018-01-23 16:13
2017年 12月 29日
総師範が入院したと合気道小林道場、関係団体に情報が飛び交いました。
確かに所沢道場の線路の向いの防衛医科大学校病院に2月19日~27日迄の9日間入院していたのは事実です。多くの会員が心配してお見舞いに来て頂きました。誠に有難うございました。 病院での規則正しい生活 朝、6時起床、検温、血圧測定、7時40分食、10時、大学病院特有の主治医がお供10名位引き連れての回診、11時40分昼食、皮膚病ですので12時 風呂、シャワー その場で医者が薬を塗ってくれます。17時40分 夕食 21時まで自由時間、21時消灯、 発端は朝稽古の無い日に、朝6時頃から20キロ歩いていました。昨年の夏からは、秩父三十四観音霊場巡りを始めました。1番から回り始め30番まで回りました。そして今年8月22日歩いている時に右足の静脈溜の処が痛みだし歩行が困難に成りました。 女神様が心配し強引に近所の病院に連れて行かれました。年齢的に手術は出来ない状態ですので足全体を強く締め付ける腿からの専用の靴下を穿く様に指示されました。私は真面目に医師に指示された事を守りました。2回目の検査の時に静脈溜は殆ど小さくなりましたが、それに伴う皮膚病が出来ました。それが急速に広がり、腫れと熱を持ち歩行も困難に成りました。 弘明道場長が心配し私を予約なしで19日朝7時半に防衛医科大学校病院に連れて行かれました。静脈溜の診断の医者が皮膚病の治療が先と判断し、皮膚科の医者に詳しい紹介状を親切にも書いてくれました。私の足を診断した皮膚科の医者は自宅での治療よりも入院治療の方が早く治ると判断、その場で入院を指示し病室に直行です。薬を塗ると腫れと痛みが無くな りました。 以上様な事で9日間の入院に成りました。身体の方の病気は一切無いので時間が有ると病院の100メーター有る廊下を歩き回っていました。本当に家族、会員そして関係者の方々の私の事を心配下さり感謝、感謝、感謝の一言しか有りません。 退院した現在年末、年始の稽古休みの期間に本来の体調に回復し1月7日の新年稽古開始から楽しい稽古で汗を流したいと思います。小林道場50周年行事に向け精進していきます。今後とも宜しくお願いします。 世の中に寝る程楽は無かりけり、 浮世のバカは起きて働く 皆様佳い年をお迎え下さい。 #
by shihan_aikido
| 2017-12-29 22:54
2017年 11月 01日
私は62年前1955年4月に本部道場に入門後、大学の単位取得の最低時間以外はアルバイトも行わず本部道場に入り浸りに成りました。その理由は当時の内弟子達は戦後まだ10年、東京が戦災で住宅不足で大学生達が下宿代わりに住み込んで稽古又朝晩稽古しながら道場から勤めに通っている人達が5,6人いました。この先輩達は日本全国各地からきていますので、都心育ちの私には生活感、物事の考え方の違いが私には新鮮に思えてなりませんでした。
稽古はその内弟子達中心に一般稽古人が10人もくれば今日の稽古は人数が多いんと云われた時代です。当時の本部道場植芝吉祥丸先生は合気道では生活出来ず証券会社に勤めていました。何せ合気道は戦前軍関係者が中心の稽古で柔道、空手そして剣道の様に一般的には普及していません。一般公開は1955年8月に日本橋の高島屋の屋上で戦後初めて合気道は一般に公開されました。2年後に朝日新聞が主催した朝日ホールでの演武会は会場に入りきれないくらい以来、新聞、週刊誌等に新しい試合の無い武道として取り上げられるように成りました。 その掲載された雑誌を送ってくれますが、内弟子達は一読すると殆ど処分していました。私は気が付いた時は許可を得て自宅に持ちかえり保存しておきました。アメリカの武道の雑誌ブラックベルトは1966年頃の合気道本部道場の内弟子達の生活を取り上げています。 雑誌の内容を写真で皆さんにみせます。特に内弟子達の給料は1000円と書いてあります。大卒の初任給が10000円の時代です。1/10です。 ![]() ![]() ![]() ![]() 当時の内弟子達は合気道が好きで、好きで内弟子としてどんな厳しい生活でも厭わない人達の集まりでした。 私が入門してから3年後です。イギリスに合気道普した某師範は、突然、学校卒業後の5月頃に本部道場に来て植芝吉祥丸道場長に内弟子にして下いと来ました。見も知らぬ20歳前の若者です。植芝吉祥丸道場長は当然駄目だと断りました。翌日から朝6時から本部道場の玄関前に座り込みました。勿論雨の日も風の日もです。1か月過ぎました。当時の道場長長補佐の大沢喜三郎師範(現在本部大沢隼人師範の父)が植芝吉祥丸道場に助言して下さり内弟子が許可されました。 その1年後内弟子希望の青年が又来ました。勿論断られました。その青年は朝6時に本部道場にきて掃除、稽古し夜の最終稽古後皆が帰る迄道場にいて掃除や雑用をしました。又翌日朝6時に道場に来て一日いて帰るのです。それを一か月続けました。一か月後大沢師範の助言で内弟子許可が出ました。彼は内弟子許可が出た翌日から全然稽古に来なくなりました。私達内弟子達は「不思議な奴だな、住み込み許可がでたら道場に全然来なくなった」と不思議がりました。一か月後再度現れた時に来なかった理由を聞くと、安心し気が緩み風邪を引き寝込んでいたそうです。後で分かった事ですが二人は中学生時代の同級生でした。 この様な内弟子達の集まりでしたので、多田宏師範の座り技1000本、腹筋1時間等の厳しい稽古に耐えました。基本の技の関節技等を強く捻られても痛いと云わず我慢比べもしました。私は内弟子の中でも一番身体が小さかったですが非常にタフで疲れが早く治る体質でした。受身で素早く立ち技を掛け相手を疲れさす作戦で相手に嫌がられました。 激しい稽古をして10年、昭和39年(1964)年東京オリンピックが10月10日開催されました。柔道の重量級で神永選手がヘーシング選手に敗れました。これにより、日本の武道が世界中に注目されました。それと共に合気道も関心が高まり本部道場に指導者の派遣要請がきました。日本では合気道で生活できないので本部道場内弟子達はフランス、イギリスそしてアメリカに旅立っていきました。 私にはビルマ、現在のミャンマーの軍人に合気道を教える要請が来ました。日本政府は東南アジア各国に戦争の賠償として多額のお金を払っていました。その賠償金で先任として山口清吾師範が派遣されておりその助士としての派遣です。しかし三か月後ミャンマー政府がクウデターで政権が変わりました。ビルマ軍から6名が合気道と柔道を学ぶために派遣されてきました。その軍人達の面倒をみました。 この事で私は神様が私を日本に居るように指示したと感じました。海外在住で合気道の指導者としては行かない決心をしました。そして小平の自宅に道場を開き現在の合気道小林道場が在り、皆さんと楽しい稽古出ています。私始め小林道場の指導部員が短期で海外し指導に行っています。「結び基金」を会員の皆さんの協力により設けて、海外から来る人の援助や費用の出せない国の合気道道場に指導員を派遣し合気道普及に邁進しています。 そして、来年は合気道小林道場創立50記念行事を9月に京都で行う予定です。皆さんの漁協力宜しくお願い致します。 #
by shihan_aikido
| 2017-11-01 12:22
2017年 10月 15日
2017年10月9日 体育の日に合気道小林道場グループの講習会が西東京市民会館 地下体育室で初心者から上級者までレベルの参加者130名が一堂に会して行なわれました。この講習会の原点は小林道場創設以千葉県岩井海岸で行われた一泊二日で行われた合宿です。
当時は私32歳でした。稽古は学生合宿並み朝5時半起床で海岸マラソン後6時半から第1回稽古朝食後の午前、午後2回の稽古で夜は夜中までの宴会等でした。朝3時、4時まで飲む人もいました。この様な合宿が30年以上続きました。 ![]() 時が経つのに従って指導部も初心者、有級者、有段者等のコース別を企画参加者の増加を図りました。しかし、小林道場の直轄傘下道場は三多摩、埼玉県が中心です。千葉岩井まで遠すぎるし、交通費も掛かるとの意見で各指導員のブロック別合宿春を行い秋は講習会に切り替わりました。その様に成ると小林道場全体で集まるのは審査以外無くなりました。道場間の交流も顔見知りでないと支障をきたします。その為に、合同講習会を行う様になりました。場所は東京都田無市の市民会館体育室です。 今回は第二回目の講習会です。指導も以下の様です。 1.11:00 ~ 12:00 講習1・指導:小林弘明道場長 2.13:00 ~ 14:15 講習2・指導:増田学師範・小柳俊一郎師範 3.14:30 ~ 15:30 講習3・指導:小林保雄総師範 4.15:30 ~ 16:15 自習・小林道場指導部員が巡回 場所的に剣、杖の稽古は狭すぎますので体術のみです。 ![]() 参加団体は遠く九州宮崎、富山からも参加してくれて130名の参加者が有りました。指導は総師範の私、小林弘明道場長、増田師範、小柳師範、そして小林幹雄師範、山脇師範、笠原指導員の補助と司会で毎時間全指導員が補助につきました。130名を指導して回りましたのできめ細やかな技の解説指導が出来たと思います。昼食1時間休憩と各稽古時間の15分の休憩でした。総師範の私は3時間目です。皆さん多少の疲れが見えましたので、私の修行時代の植芝盛平翁先生のエピソードを交えながら基本技を多少別な角度からの指導を行いました。4時間という長い稽古でも落伍者も無く多少疲れたと云いながら皆さん楽しそうに元気で稽古しました。特に一般的な講習会には無い自習時間一時間は指導部の師範が手分けして参加者の自由な質問に模範を示しながら出来ましたので非常に評判が良かったです。 そして、楽しい稽古後の慰労会です。田無駅前のこれも「さかなや道場」という居酒屋です。飲み会も道場です。お酒を飲むのも修行に一つと普段から飲んべえの多い田無道場の会員の幹事が講習会参加者の為に場所を設定してくれました。飲み放題、料理も普段の飲み会よりも良いものが出ましたので皆さん思い思いに談笑していました。この様子は写真で見て下さい。 田無道場の幹事の皆さん御協力有難うございました。 ![]() 来年も行いますので、是非一人でも多くの参加をお願いします。小林道場グループ以外の合気道仲間達も大歓迎です。 #
by shihan_aikido
| 2017-10-15 16:24
2017年 09月 26日
今、小平道場会員の川合公純初段のヴァイオリンコンサートがルネ小平で開催され帰宅してから直ぐこのブログを書いています。第一部、二部でクラッシックでした。クラッシックに余り縁のない我々の為に三部で童謡、お江戸日本橋、しかられて、七つの子そして赤とんぼ等を演奏してくれました。お江戸日本橋を聞いて急に日本橋の道路原票から伊勢神宮まで500キロ歩いた事を思い出しました。
![]() コンサートを開いた川合さんとお母様 私が40歳(1976年)に成った時に何か思い出に成る事をしようと決心しました。日本人の原点は伊勢神宮と思い、日本橋の橋の中央に有る道路原票迄行きそこを起点として伊勢神宮まで500キロを歩きました。10日で歩きました。この時、NHKの朝の番組「奥様こんにちは」に取り上げられて全国に放送されました。(録画有り、見たい人申し出ください)それ以来、朝稽古の無い時は、10キロ、20キロと毎日の様に多摩遊歩道を歩いていました。 ![]() そして、昨年2016年の夏から突然、埼玉県の秩父遍路を思い立ち時間が取りやすい毎週一回朝、9時に秩父まで行き遍路を歩きだしました。秩父遍路は34番まで有ります。週一回歩いて一年掛かって30番まで歩き通しました。その距離180キロでした。そして、8月1日も20キロ歩いて帰宅途中、左腿の静脈瘤部分が突然痛くなりました。歩行も困難です。幸い左足でしたので、車で都心のホテルに行きました。4日間、食事以外部屋から一歩も出ず痛みが治まるのを待ちました。 ![]() 女神様が心配し強引に病院に連れて行かれました。形成外科の医者の診断は歩き過ぎによる痛みで、左足を専用のタイツで強く圧迫し、血流を良くし30分以上続けて歩かない事でした。運動はして良いとの事で稽古は平常通りし受身しながら指導、稽古時間は1時間で切り上げています。体重90キロ有りましたが、食事にもゆっくり噛んで食べるようにしました。約2ヵ月で4キロ減、たるんでいた腹も大分小さくなりました。割れた腹筋を目指したて多少の腹筋等をして頑張っています。年内には「割れた腹筋」を実現します。足が痛い期間何日か稽古を休み、韓国指導も遠慮しました。総師範が怪我で指導出来ずのうわさが広がっています。心配いりません。元気、元気、元気で指導しています。 皆さん道場で会いましょう。 #
by shihan_aikido
| 2017-09-26 12:15
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