戦後初めての外国人内弟子 |
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2019年 12月 04日
戦後初めて合気道本部道場内弟子に成ったフランス人、「アンドレ・ノケ氏」の事を調べる為に来日したフランス人の関係者から連絡が有り、11月23日に午前9時半に小平道場でインタビューを受けました。 何故、私に連絡が有ったかというと、彼が本部道場に取材に行ったのですが、本部道場には昭和30年(1955年)に初めて内弟子に成った「アンドレ・ノケ氏」の入門記録や写真は有るのですが、彼の事を知っている人が誰も居ないとの事でした。 私は昭和30年(1955年)4月本部道場に入門しました。その半年後の昭和30年9月の日本橋高島屋の屋上で戦後初めて合気道が一般に公開されました。この様な状態なので、当時の合気道は本部道場といっても朝と夕二回の稽古でした。稽古人数は内弟子含めて、朝6時半~7時半の稽古は10人~15人位で、18時半~19時半の夜の稽古も同じ位の人数でした。本部道場の会員全体で40名~50名人位です。 当時の本部道場道場長、植芝吉祥丸先生は合気道では生活出来ず証券会社のサラリーマンをやっていました。 この様な状況の中で、フランス人の「アンドレ・ノケ氏」が内弟子として住み込みました。これは、昭和28年に阿部正師範がフランスに渡り初めて合気道をフランスに広めました。その推薦で当時40歳ぐらいの「アンドレ・ノケ氏」が来日したのです。柔道をしていたので体はガッチリしていました。 戦後まだ10年です。まだまだ食べるものが世間一般には十分では無かった時代です。今考えても良く内弟子として外国から合気道を修行する為に来日したと感心しています。本部道場には当時も内弟子が居ました。その内訳は、 1、専門家を目指す者 2、住み込んで修行しながら会社に行く人 3、朝晩稽古しながら大学に通う人等です。 当時の本部道場は木造の道場で、冬は一番辛い時期です。内弟子達は道場の奥に有る6畳の部屋で生活していました。天窓が有り光は入るのですが、日は当たりません。当時の冬は今よりも本当に寒かったです。日の当たらない控室に暖房は火鉢一つです。内弟子達は寒いので一人の時は股火鉢(火鉢の上に跨る)をしたり、何人か居る時は手、足を温めるのがせめてもの慰めでした。下の写真左から2人目が私です。あまり寒いと稽古の無い時は布団に潜り込んでいました。アンドレ・ノケ氏も私達と同じ生活をしていました。 私とアンドレ・ノケ氏とは何となく気が合い演武会での受は私がよく指名されました。この写真は池袋のデパートの屋上で演武の写真です。2年滞在したと思います。彼はフランスに帰国後合気道の普及に専念されました。 下の写真に写っている田村信義氏、野呂昌道氏もフランスに昭和40年頃フランスに渡り合気道の普及、発展に努力されました。その為に、現在ではフランスの合気道人口は日本に匹敵するほど多いいといわれています。 アンドレ・ノケ氏が帰国の時に、私にもフランスに来ないかと誘われた事も思い出します。20年位後にアンドレ・ノケ氏が再来日した時に日本のフランス大使館から電話が私に有り、アンドレ・ノケ氏が私に是非会いとの事で逢いに行った記憶が有ります。 今回、アンドレ・ノケ氏の関係者が持ってきた写真は、私も初めて見る写真です。又私のアルバムに張って有る写真も掲載します。 20歳の頃の私達の姿と当時の本部道場を見て下さい。 #
by shihan_aikido
| 2019-12-04 17:37
2019年 11月 23日
ドイツの首都ベルリンは1961年から1986年迄の冷戦時代に東西に分断する壁が有り、今年の11月10日にベルリンの壁崩壊30年の記念式典が行われたとTVで報道していました。 私はベルリンの壁が有った時の1977年夏に合気道指導の為にベルリンを訪問しベルリンの壁を見て、触った経験が有ります。 明治大学合気道部の後輩、浅井勝昭師範昭和38年(1936年)大学卒業と同時に、時の本部道場長植芝吉祥丸先生の要請で合気道指導の為にドイツに初めて派遣されました。 当時のドイツ武道界は柔道連盟が強力な権限を持っていて、柔道場を使用して合気道の稽古をしようとすると、合気道は柔道連盟の傘下に入らなければ稽古させないという通達が柔道連盟から出ました。浅井師範は合気道と柔道は違うものだという強力な信念から、柔道連盟の傘下を拒否しました。ドイツ全土の柔道の道場使用が出来ず稽古場確保に苦慮したそうです。 1年、2年と困窮した生活の中、稽古場確保に奔走しました。少しづつ理解者が出てきて、私が1977年夏に訪問した時にはドイツ全土に立派な合気道組織が確立されて居ました。浅井師範の努力、苦労に頭が下がりました。 私のドイツ滞在中ベルリンの道場からも是非ベルリンに指導に来て下さいと要望が有りました。私も東西分離のベルリンを見ることに興味が有りましたので、喜んで指導に行きました。稽古後観光に連れて行ってくれました。私が東ドイツに行きたいからというと駅に連れて行ってくれました。 地下鉄で山手線みたいにベルリンの地下を電車は幾つかの駅を回っています。東ベルリン地区の一つの駅だけ封鎖が解除されていました。外国人と特別なビザを持ったドイツ人だけが駅の改札を出て東ベルリンへ入ることが出来ます。私は東ベルリンに観光に行ってきました。当時の東ベルリンは戦火の後がまだまだ復興されておらず、第二次世界大戦で破壊されたままの場所が多く残されていました。東西ベルリンの経済格差が素人の私にも歴然と分かりました。 この様な事をテレビを見ていてふと思い出しました。 #
by shihan_aikido
| 2019-11-23 18:15
2019年 10月 14日
本部道場の朝稽古をしていて、就職試験日を忘れてしまったのです。学校の就職課から電話が有り、以後就職を紹介しないと電話が有りました。戦後12,3年就職難の時代です。そのまま卒業です。 4月に成り、家で稽古以外はぶらぶらしていました。父が「保雄、仕事は」と聞かれました。怒られるかと思い小さな声で「無い」と答えると父から、意外な言葉が返ってきました。一言「遊んでろ」です。直ぐ上の兄貴は日比谷高校から慶応大学工学部で特待生、学費免除、入社する会社から奨学金まで支給されていました。(後に工学博士、農学博士を取り、日本の紙関係の最高権威者に成りました。)期待はそちらに向いていましたので、私の事は好きな事を遣らせようと考えていたらしいです。 時間が有りますので、一日中本部道場で稽古をして内弟子同様の生活を送りました。当時,日本人は、ヨーロッパ、アメリカに追いつけ、追い越せと一生懸命働きだしました。テレビのコマーシャルに「24時間戦えますか」の標語が出たくらいです。 社会には経済的に少しずつ余裕が出てきました。合気道も新聞や雑誌に新しい武道として取り上げられ稽古する場所が少しずつ増えてきました。吉祥丸先生は若い私達を指導者として派遣したのです。22〜3歳の元気盛りですので、学生の部活の様な稽古をして、一般人にとっては乱暴な稽古なので「小林は指導者には適さない、と苦情の電話が何回も本部に有った様です。有楽町のガード下に在った産経学園合気道教室(隣はボディビル教室で作家の三島由紀夫氏がきていました)では土曜日の午後の稽古で3週間連続して救急車を呼んだ時にはさすがに吉祥丸先生に怒られました。 当時大卒の給料が1万2~3,000円でしたが本部道場が私に支給されたのは1,000円でした。私は合気道の稽古が出来れば良いので苦に成りませんでした。当時は合気道本部道場もそれほど経済的には困窮していました。 結婚して弘明が生まれたとき、女神様が「こんな給料では生活できない、あなたは、弟子だから言えないでしょうが、私は赤旗を持って本部道場に座り込む」と言い出しました。私は馬鹿だから当時の吉祥丸道場長にこの話をしたら「小林君の奥さんは怖いからと」1000円昇給させてくれました。 1960年代の学生運動が私の運命を変えました。1年、2年と大学が閉鎖され合気道部員の稽古出来なく成りました。大学で稽古出来ないなら小平の自宅駐車場に道場を創り稽古しようと考えました。即実行です。自分で建築し出しました。1969年の年賀状に4月道場開きをするから来て下さいと書いて年賀状を出しました。不思議と協力者が表れて4月に夢にまで見た合気道小林道場が開設して、学生達と稽古を開始しました。 学生達と合気道を楽しそうに稽古している姿をみて、通り掛った人が私の子供に稽古を教えてとか自分も稽古したいと自然に増えていき、世界40ヵ国と交流有る小林道場が生まれたのです。 これも、佐居守氏との出会いが無ければ現在の合気道小林道場はなかったのです。人と人との出会いを大切にし、好きな合気道で生活出来たのは妻である保子の理解と家族、親、そして大学合気道部の協力が有ったからです。心より感謝いたします。皆さん自分の夢を色々と持っていると思います。夢を人に語り、実行に移す努力をして下さい。思い続ければ必ず達成できます。
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by shihan_aikido
| 2019-10-14 15:11
2019年 09月 06日
「秘境3絶景と熊野三山 観光列車「天空」と案内人とめぐる高野山3日」というJTBのツアーを見つけて行ってきました。ホテル浦島と高野山宿坊内に宿泊に惹かれたのです。 昨年(2018年)9月に明治大学合気道部を私と一緒に創設した佐居守氏が亡なったと家族から連絡が有りました。彼の遺言で葬式、香典、墓無用との事で焼香にも行けませんでした。考えて見れば彼が居なければ合気道の稽古はしていましたが、明治大学体育会合気道部を結成しなかったかも知れません。そして、現在世界40ヵ国と交流の有る合気道小林道場の存在も無かったと思います。 私は昭和30年(1955年)4月に明治大学に入学と同時に合気道本部道場に入門し、合気道の稽古を始めました。1年後、本部道場にプロレスラーの様な体格をしていて、物凄い力の強い明大生1年生、佐居守君が入門してきました。同窓という事で直ぐ友達になりました。彼の実家は和歌山紀州勝浦出身で、家はマグロ船の網元です。和歌山新宮に合気道の道場が有り、そこで高校時代から稽古していたのです。(時代が少しずれますが、バーバラ師範が来日し始めて合気道を住み込み修行で稽古していた道場です。) 私は毎日の様に、本部道場に稽古に行っていましたので、自由稽古の時に佐居君と稽古しました。諸手取呼吸法の時など強い力で握られると、握られた私の指が自然に「ちぢむ」くらいの力です。一寸と頑張られると技は掛かりません。 しかし、毎日、毎日稽古していると、慣れてきて相手の弱点が分かるようになってきました。力の強い相手に対する対処法が身に付いてきたのです。また当時から私はタフで疲労回復が人より早かったのです。受け身を素早く取り、相手に息つく暇なく受け身を取らせるのです。相手のスタミナがきれ、息が上がって来ます。「小林、お前と稽古すると疲れる」と言わすのが快感でした。 このスタミナの素は毎日の皇居の回りを走ったからです。 私の実家は九段の坂を登り切った角から2軒目です。今では皇居の回りを走る人達は沢山いますが、昭和30年頃は誰も居ません。早朝、自宅から皇居一周4キロを走り、本部道場の朝6時半からの稽古に行きました。当時は東京中に都電が走っていて、自宅前から12番に乗ると「新宿歌舞伎町」が終点です。そこで、11番に乗り換え「抜け弁天前」で降りると本部道場は直ぐです。この朝稽古に通っていたのが私の人生を変えてしまったのです。 次回に続く.......
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by shihan_aikido
| 2019-09-06 09:59
2019年 07月 25日
先日、所要が有って日比谷公園前の帝国ホテルに行きました。27階の窓から日比谷公会堂が見えました。1963年(昭和38年)10月1日に第3回以降の合気道演武大会が日比谷公会堂で開催されたのを思い出しました。当時は合気道創始者植芝盛平翁先生もお元気で演武会に参加されました。 植芝盛平翁先生は演武会の2、3日前から茨城県岩間の道場から上京されます。内弟子の私達は平常の稽古の他に演武会の準備と盛平翁のお世話で、てんてこ舞いの忙しさです。 演武会の当日、私は盛平翁先生のお世話係の担当に成りました。演武会は1時から始まります。道場長の植芝吉祥丸先生、内弟子達は本部道場には午前10時頃には準備の為に出かけてしまいました。道場には盛平翁先生と私と二人きりです。昼食を済まし、13時頃に成ると盛平翁先生は「わしは演武会に行かなければ」と言いだしました。 盛平翁先生の出番は16時頃です。15時半にタクシーで出れば充分です。盛平翁先生が会場に着くと、そのまま演武会場に出てしまいます。そうすると、以後の演武者が演武出来なく成ります。私達内弟子達の演武は出来なくても問題は起こりませんが、地方からの演武者が演武できないと大問題になります。本当に引き留めるのに苦労しました。 タクシーの運転手に言って遠回りをしてもらった事も有ります。翁先生から「新宿から日比谷に行くのに、何故上野を通るのだ」と怒られた事も有りました。今は楽しい思い出になっています。 合気道探求第58号が発売になりました。 http://www.aikikai.or.jp/about/information/detail.html?news_id=255 私のインタビュー記事が載っています。一般書店でも購入できますが、道場で一括で購入するため購入希望者を募っています。希望者は指導員まで申し出て下さい。 サイン入りでお渡しします。 #
by shihan_aikido
| 2019-07-25 16:37
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